○藤原京大極殿子午線 135゜48'07.42
日本古代宮都構造の研究 小澤毅 青木書店 245~248P
・天武十一年(682年)三月一日 小紫三野王及び宮内官大夫等に命じて新城に遣はしその地形を見しむ。
・天武十三年(684年)三月九日 天皇京師に巡行きたまひて宮室の地を定めたまふ。
・持統元年(687年)十月二十二日 皇太子、公卿、百寮人等并て諸の国司、国造百姓男女を率て始めて大内陵を築く。
・持統四年(690年)十月二十九日 高市皇子藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり。
・同年十二月十九日 天皇藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮皆従なり。
・持統五年(691年)十月二十七日 使者を遣はして新益京を鎮め祭らしむ。
・持統六年(692年)正月十二日 天皇新益京の路を観す。
・同年五月二十三日 浄広○難波王等を遣はして藤原の宮地を鎮め祭らしむ。
・同年六月三十日 天皇藤原の宮地を観す。
・持統七年(693年)二月十日 造京司衣縫王等に詔して掘せる○を収めしむ。
・持統八年(694年)正月二十一日 藤原宮に幸す。
・同年十二月六日 藤原宮に遷り居します。
・慶雲元年(704年)十一月二十日 始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五姻に布賜ふこと差有り。
・天武・持統合葬陵(檜隈大内陵=野口王墓古墳)が藤原京の中軸線である朱雀大路の南延長線上に位置し、菖蒲池古墳や中尾山古墳もほぼその線上にあることは、一九六九年に岸俊男氏がはじめて指摘した(1)。
これらは、一九七二年に高松塚古墳から壁画が発見されたさいに改めて注目され、直木孝次郎氏が被葬者推定の根拠としたことから、マスコミにより、“聖なるライン”と命名されて、一躍脚光を浴びる事となる。(藤原京中軸線と古墳の占地 奈良文化財研究所 小澤毅 橿原考古学研究所 入倉徳裕 著 明日香風111 29-34P)
(1)岸俊男「京域の想定と藤原京条坊制」『藤原宮』奈良県教育委員会一九六九年
・朱雀とともに眠る古墳の被葬者像 猪熊兼勝 明日香風80
宮地選定の時期
なお、その場合に問題となるのは、天武十三年(六八四)三月の「京師に巡行きたまひて宮室の地を定む」という記事だが、この文言を文字どおり受けとって、宮の位置がここではじめて決定されたとみるのは正しくないと思う。藤原京の形態が、宮を中心におくきわめて整斉なものであることから、宮の位置を予定せずに、京の造営が進められたとは考えがたいからである。
造営の中断と再開
しかしながら、その後、天武の死去(六八六)や草壁皇子の夭折(六八九)によって頓挫し、持統期に入ってようやく再開されることになる。持統五年(六九一)十月におこなわれた「新益京」の鎮祭、そして翌年(六九二)五月の「藤原宮地」の鎮祭の記事は、そうした工事の再開を示すものとして理解できよう。
…
『続日本記』慶雲元年(七〇四)十一月壬寅(二十日)条の「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五姻に布賜ふこと差有り。」と言う記事は、その完成を示すものであろう。
(日本古代宮都構造の研究より)
※造成を5年も放置すると、丁度平城京宮跡の公園のように条里は、植物によって破壊される。夫と子の墓陵を優先させた持統天皇は、再度都市設計をし直す必要があったのではないか?
大極殿北の池より南の大極殿方向
○藤原京内裏 34゜30'07.61" 135゜48'07.42" 71.2m(大極殿)
大極殿以外の建物、特に住居宮殿
・宮殿は、大極殿の北、池の更に北にあったと推計される。東宮殿(文武天皇)は、その東。元明天皇、元正天皇宮殿は不明。
大極殿に二階はあるか。
・飛鳥藤原京展図録(大阪歴史
博物館(2002年6月1日~7月28日他)の大極殿復元図によると二階が有る。
○藤原京 34゜29'44.29" 135゜48'26.36" 77.8m
朱雀大路は、どうやって南を測ったか。
・藤原京条坊の設定が、年代的に天武陵造営より先行することは、発掘調査でも確認されている。藤原京から直接視認できないとはいえ、この程度の距離であれば、当時の技術でも、京の中軸線を南に延長することは問題なくできる。(藤原京中軸線と古墳の占地より)
※天武陵が、藤原京条坊の後であるなら、天武天皇の夢見た中国に倣った都市が一望できる場所に何故造らなかったのか?菖蒲池古墳位置なら、三山とともに一望できるのに。天武天皇陵が、実はもっと高い墳墓であるなら、その必要は無い。
※当時の技術とは、どう云う技術だろう?日時計と縄、松明、鏡で方法を検証しないのだろうか?何度も縄を張り、直線を大地に記していくと誤差が生じてしまうのは、小学校のグランドのライン引きと同じだ。
・一方、宮内となる部分でも、宮の造営に先行して条坊道路が施工されていたが、注目したいのは、そうした道路が、微妙にずれるかたちで、二時期にわたり存在する点である。このうち、古いほうの道路の存続期間は比較的短く、かつ京内全域におよぶものではないようだ。両者の間には、ある程度の時期差を想定しうる。(日本古代宮都構造の研究)
本薬師寺東搭
○本薬師寺 34゜29'32.51" 135゜48'07.42" 76.7m
東搭34.4925485 135.8006967
西搭34.4925410 135.7999159
・天武九年(680年)十一月十二日 皇后の為に誓願ひて初めて薬師寺を建つ。
東西の塔、金堂の位置。
・日中古代都城図録 48、49P
広さ、高さ(推計)。
橿原考古学研究所復元墓
○束明神古墳
・持統三年(689年)四月十三日皇太子草壁皇子尊薨りましぬ。
藤原京造営が、草壁皇子薨去より早い場合は、逆に束明神の場所は本薬師寺から決定された事になる。
○飛鳥寺
飛鳥寺の金堂、塔の位置、広さ、高さ(推計)
300m×200mはあったと推計される。
天武天皇持統天皇陵
○天武天皇陵
34゜28'37.09" 135゜48'28.55" 117.4m
鬼の雪隠
○鬼の俎、雪隠
古墳の石棺の盛り土の高さ
・明日香村文化財調査研究紀要第2号によると、2~3m粘土と砂質土を交互に盛土。
・鬼の雪隠は、鬼の俎の蓋部分。距離が離れており、向きも240度ずれており、巨石を動かしたのは、大規模な土砂崩れのように見える。
○天の香具山
衣の洗濯場所
藤原京復元模型天の香具山と池
今の古池他はいつ頃出来たのか。
万葉集 巻第一 52 藤原宮御井歌
万葉集巻 第二199、201 高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
埴安の堤 香久山の麓にあった池の堤。今は無い。
博物館学芸員コメント:現在有る池は江戸時代以降に作られたもの。池跡を発掘した事も無く、発見した事も無い。
以上を誰に聞いたら判るか。誰の本に書いてあるか。
・どう見えるか
千田稔 奈良県図書情報館館長 宮都の風光
・どう建築したか。
宮本長二郎
東北芸術工科大学芸術学部歴史遺産学科教授
77年奈良国立文化財研究所
91年文化庁建造物課
94年東京国立文化財研究所
99年東北芸術工科大学
日本建築史、考古建築学所属学会等日本建築学界・建築史学会・民族芸術学会
新装版 平城京 (日本人はどのように建造物をつくってきたか)
その他参考
飛鳥幻の寺、大官大寺の謎 角川選書 木下 正史 著 角川書店 出版2005.2年
万葉集私注 土屋文明
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