一 百首哥中に 崇徳院御哥
一 嵐ふく岸の柳のいなむしろ折敷なみにまかせ・ぞみる
増抄云。いなむしろとは、田にいねのいできて、
末のそろひたるが、むしろのやう成と云也。
柳が枝水になびきて、一面にあるがうれに
似たる故にかく云也。むしろといふよりしくと
いへり。しくとは一面ニなす事なり。此御製を
案に、むかし顕宗天皇、仁賢天皇、御身
をかくして、はりまの国にヰ給ふ時、牛馬を飼
給ひしが、名をあらはし給ふときの御哥に、
いなむしろ河そひ柳水ゆけばなびきおし
たちそのねはうせず。これをや本哥にし
給ふらん。此哥は、王の御すぢのつゐにたゆ
まじき事を、柳にたとへられたり。柳がおき
ふし水にさそはるれとも、ねのうせぬごとく
なりといへり。されば嵐ふくとは、崇徳院にあら
くあたりたてまつるものにたとへ、柳を御
身にたとへらえたり。なりしたひにしておかせ
給ふといふ心を、なみにまかせてとなるべし。
崇徳院の御時、世のみだれにて、さぬきの圀
頭注
日本紀十巻に委く
あり。ながければ
畧之。
水そひ柳の御哥
釈日本紀に委ク
注アリ。
にうつされまし/\しんり。いなむしろと
よみ給ふは、このこゝろをふくみて成べし。
※まかせ・ぞみる まかせてぞみるの脱字。
※顕宗天皇 第二十三代天皇。日本書紀での名は弘計天皇。安康天皇が暗殺されたあとの後継者争いで父(市辺押磐皇子(履中天皇皇子))が大泊瀬天皇(雄略天皇)に殺されたため、兄と共に身を隠す。
※仁賢天皇 第二十四代天皇。『日本書紀』での名は億計天皇。諱は大脚あるいは大為。顕宗天皇の同母兄。
※稲莚~
日本書紀清寧二年 室壽歌 顕宗天皇
稲莚川副柳水行けば靡き起き立ちその根は失せず
(古代歌謡集 体系による)
※この御製は、久安六年百首(1150年)で、保元の乱(1156年)の前の作。増抄は考えすぎだろう。