新古今和歌集の部屋

ブラタモリ 吉野の西行歌


「奈良・吉野〜なぜ桜といえば吉野なのか?〜」 - ブラタモリ

「奈良・吉野〜なぜ桜といえば吉野なのか?〜」 - ブラタモリ

今回の舞台は吉野。桜の季節にはおよそ40万人が訪れる言わずと知れた花の名所はどう生まれたのか?タモリさんがブラブラ歩いて解き明かす▽一目千本!山全体が桜一色に!...

「奈良・吉野〜なぜ桜といえば吉野なのか?〜」

新古今和歌集 春歌上
花歌とてよみ侍りける
吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ 異聞御

山家集
落花の歌あまたよみけるに
このもとに旅寝をすれはよしの山花の衾を着する春風
異本山家集

勅撰集には撰歌されておらず、後世の吉野の桜を代表する歌とするには無理が有る。


新古今和歌集 雑歌下 切出歌
題しらず 
ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 山異御心

ただし、ブラタモリでは、この歌を、西行の死ぬ前年で、吉野での歌と説明したが、御裳濯河歌合に有り、この説明でもいい加減なものとなっている。
又、旧暦の二月十五日に、吉野で桜は咲かない。

詩歌と気象生物 9 西行と桜1 - 新古今和歌集の部屋

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(ウェップリブログ2008年02月05日~) (石川県立図書館蔵異本山家集)9西行と桜ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ(西行1118~1190、新古今巻第...

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詩歌と気象生物 9 西行と桜2 - 新古今和歌集の部屋

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山家集、聞書集、残集、補遺の桜の歌について、何処で詠んだのか調べてみると(岩波文庫)吉野48京都・白河5・清和院の斎宮2・菩提院の前斎院1・法勝寺1・雲林寺1・大宮1・...

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伊勢の内宮に奉納した西行の自歌合。成立は奥州から帰った1187年(文治3)ころか。西行が自己の秀歌72首を選び,左方を山家客人,右方を野径亭主として36番の歌合に構成し,藤原俊成に判を依頼したもの。同じく西行の自歌合《宮河歌合》(定家判)と一体のものであるが,後世自歌合の最初と言われている。自選歌を通して西行の和歌評価基準を知ることができ,俊成の率直な判詞とともに貴重な資料である。【竹下 豊】






コメント一覧

jikan314
@kunorikunori kunorikunori様
西行がどこに住んだかは、かなり研究されていますが、不明な場所、時期は多いですね😃
そう言えば、kunorikunori様とネット上で三条の西行庵を御一緒に探しましたね。今は餃子の王将になっていました。
kunorikunori様のご先祖九里家を探す旅も、少ない断片情報を集め、ご先祖のお住まいになった場所を特定していますね。
不明な部分が多くても、嘘を放送するのは、嫌ですね。番組プロジューサーが、番組的に面白いと思ったのでしょう?
又御來室頂ければ幸いです😉
kunorikunori
Jikan様

へぇ~的確にweb上から掴んでくるものですネ。
今年の情報まで…

「1140年平忠盛が金峯山に鐘(三郎鐘=重文)を寄進。このころ西行が来て寓居する。」これもweb上に出てきました。

wikipediaには「保延6年(1140年)10月、出家して西行法師と号した(『百錬抄』第六)。出家後は東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んだ」とあり、

吉野に寓居は、22歳の頃の西行が出家した年になりますね。

紀伊国の紀の川あたりに田仲荘があったとすると、吉野も近い!ですね。
jikan314
@kunorikunori 吉野山の桜は、下千本、中千本、上千本、奥千本の4箇所に密集しており、例年4月初旬から末にかけて、下→中→上→奥千本と、山下から山上へ順に開花してゆくため、長く見頃が楽しめます¹。2023年の開花情報によると、下千本は3月24日に開花し、3月29日に満開になりました²。
他に何か知りたいことはありますか?
ソース: Bing との会話 2023/6/23
との事です。
高い山で、早生のエドヒガン系のソメイヨシノよりヨシノシロヤマザクラは遅くなりますよ😃。
今年はとても早かったですが、こう言う気象が800年前にもあったか?は疑問です。
kunorikunori
前年でもなかった。。。困りましたね。
もう見ていた方々の頭の中にインプットされてしまったことでしょうね。
NHK内に検証する人はいないのでしょうか。

チャットGPTに検証させてみたら、どうなるのかなぁ。
jikan314
@kunorikunori kunorikunori様
たまたまテレビを付けていたら、吉野と言う事で見ていたら、西行の話題になって、三首紹介しておりましたが、余りにずさんな内容に、放送中に書き、投稿した次第です。
前年なんて、大嘘です。
1190年の二月の満月は、十六日で、西行の命日なのですが、西行忌は、十五日なってしまいました。河内の弘川寺の弟子には、満月で死んだ事にしてくれと遺言したのでしょう😃
この御裳濯川歌合、宮川歌合は、俊成、定家に判を頼み、慈円に清書させ、オリジナルは、家隆にあげました。
判をする時、清書する時は、歌をじっくりみます。次世代の定家、慈円、家隆に自分の和歌を引き継いで欲しいとの願いでしょう。
又御來室頂ければ幸いです。
kunorikunori
Jikan様

私もブラタモリを観ていました。
さすがです!!
私は西行さんが3つも紹介されて…と感心しておりまして、西行の歿する一年前に詠んだ歌が、(まさか…)吉野ではまだ桜が咲いていない時期…という事には全く気が付きませんでした。(すっかりと騙されていました。。。櫻が散り舞っているイメージになっていて…)

下記のJikan様の記事に、クスリと笑った後に、ジーンとしてしまいました。


定家はまだ25、6歳の歳で千載集には8首撰ばれてたとはいえ、無名に近い存在で、この有名歌人の判を大変嫌がったそうです。

西行は定家の歌に才能を見出だし、自分の歌の判をさせる事により、歌の心を引き継いで欲しかったかと思います。


私は…
西行さんのことなので「命日はあの歌の日に近くしておいてくれ!」と冗談半分に弟子に頼んでいたに違いない、と思ったりします。弟子…悩んだ末に、言われたとおりにしたのかもしれません。
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