真名序意訳文
それ和歌は、様々な徳の祖、百福の根源である。日、月、星などの天ができて、歌の基である五つの人間関係である君臣、親子、兄弟、夫婦、朋友と六つの感情である喜び、怒り、哀れみ、楽しみ、愛、悪の区分がまだはっきりとしていなかった神代の時代に、出雲の素鵞の地で、静かに、素戔嗚尊の三十一字の歌が始めて興った。それ以来、その歌の源流はまことに繁栄し、長歌短歌の形式があるとといえども、ある時は下々の意見を詠んで天皇のお聞に達し、ある時は陛下の徳を宣べて民を教化し、ある時は遊宴に出席して懐を書き、ある時は、男女の情愛や四季の美しさを採って言葉にしてきた。誠にこれは世を治め、民を慈しむ帝王の偉大な徳行である。
このような理由から歴代の天皇は、歌を集めてこれを記録した。おのおの勅撰集は精微を極めているから、どうして秀歌の漏れなどあるだろうか。だけれどもなお、崑嶺山の玉は、これを採れども余りがあり、林の材木は、これを伐れども尽きることはない。物でもかくの如くだ。歌もまた同じく然るべし。
よって、参議右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近衛権少将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近衛権少将藤原朝臣雅経らに詔して、身分の高い低いを択ばず、錦のような美しい歌や玉のような優れた文章を収集させた。神様の言葉、仏陀の作も奥深い真理を表す為に、普通の歌に交えて同じく集めた。古代より始めて、現代に至るまで、かれこれ総べて編集して、おのおの差し出させた。院御所の花がかぐわしい朝から、禁裏の庭に風涼しき夕べに至るごとに、難波津の末裔をくみ、淺香山のの立派な業績を尋ね、吟じたり詠じたりして、犀の角象の牙のような優れた歌を抜き出し、党派意識無く偏らず、かわせみの羽毛のような優れた歌を採った。形を整えて二千首を得て、分類して二十巻となった。名づけて新古今和歌集という。季節の風景を詠んだ歌は、四季の順に従って、星のごとくつらなり、多くの人の様々な歌は、群がり雲のように連なって広がっている。編集の結果ここに備えている。
謹んで考えてみるに、王族の一人にすぎなかったが、図らずも天皇となり、宮殿を退いて、上皇となった。今の天皇陛下の父親だ。帝王の政治に相談を受け、暇がないとえども、日本の朝廷の主として、どうして我が国の習俗である歌を賞せずいられようか。
現在君臣は一致団結して政治を行っているので、国内や海外でも仁政を謳歌している。下の者へ徳化が、万代の春まで続くことを楽しみ、春日野の草はことごとく靡びくように民は従い、観月の宴に千秋の繁栄を約束し、日本は乱もなく静かである。誠に人為を用いず自ずか
らよく治まっている泰平の時にあたり、筆を染めて紙をとって文筆への志を題す【やしなう】【顕す】べきだ。故にここに一集を撰び、永く代々の天皇に伝えようとする。
かの上古の万葉集は、けだしこれ和歌の源なり。編纂の由来や、典拠の問題は、星の並びのようにこれ遙かにして、煙が晴れないようにはっきりしない。延喜の醍醐天皇の時代に古今集が有り。四人が勅命を受けてこれを成した。天暦の村上天皇の時代に後撰集が有り。五人は勅命を奉じてこれを成した。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載等の集が有る。天皇数代の勅命によって出来たといえども、ことに残念なのは、撰者一人でそれらの集が撰ばれたことだ。そういうわけで延喜天暦二朝の先例に習って、公卿の中の優れた五人の英豪を撰者と定め、仙洞御所に和歌所を設置して、編集の場所を設けた。
この集の内容は、先ず万葉集の中の歌を抽出し、更に七代集に撰ばれた歌以外の歌を拾う。深く探って少しでもよい作品は残すことなく、広く求めて部分的に良い歌も必ずあげた。但し、網を山野に張っても、小鳥は自らに逃れ、筌を川や湖に仕掛けても、小魚がひそかに漏れるものだから、誠に見聞及ばないままに、定めて作品が猶も遺れること有るだろうが、今はただ採録できた作品によって、仮に編纂し終わったところだ。
そもそも古今においては、当代の宇多上皇や醍醐天皇の御製を載せず、後撰より初めてその時の村上天皇の御製を加えた。それぞれの勅撰集を考えるに、御製は十首に満たず。しかるに今集の入撰した自詠は、すでに三十首以上だ。もし私の歌が六義(風・賦・比・興・雅・頌の漢詩の六体)を兼備していれば、一、二首で十分だといえども、表現の優れた絶妙の歌が無いので、かえってつまらない歌の多く加われることとなっただろう。ひとえに歌道に耽る思いを以て、情趣の解する人の批判を顧みない結果だ。おおよそ、その取捨選択に際して、作品を賞する余り、特にこだわりのない心を巡らせた。古代中国の皇帝の伏羲の皇徳の発明した文字を基として四十万年たち、中国では自ら皇帝の編纂した書物を読むことがあるといえども、神武天皇が帝政を開いて八十二代、まだ我が国では天子の意見による撰集を聴かない。都人の男女は、歌道が繁栄するこの時に遭遇したことを喜び讃え、謳歌することを知るだろう。
この集は、独り仙洞御所で、風をうそぶき月をもてはやした興の有るを記録したのみならず、また皇家の元基が久しく続くことを祈念した年号元久の歳、故きを温ねて新しきを知るの心が有ることを示そうとするものである。本集の編撰の趣旨は、ここに在るといえる。
聖暦乙丑の元久二年の泰平の三月しかとこの序文を記した。