新古今和歌集の部屋

絵入源氏物語 葵 葵上の死の虚脱 蔵書

八月廿日余りの有明なれば、空の景色も哀れ少なからぬに、大臣の闇に

くれ惑ひ給へる樣を見給ふも、理りにいみじければ、空のみ眺められ給ひて、

 昇りぬる煙はそれと分ねどもなべて雲居の哀れなるかな

 


はれすくなからぬに、おとゞのやみにくれまどひ

給へるさまをみ給も、ことはりにいみじければ、

そらのみながめられ給ひて

   のぼりぬるけふりはそれとわかねどもなべ

てくもゐのあはれなるかな

 

 

 

 

 

 



とのにおはしつきても、つゆまどろまれ給はず。

としごろの御ありさまをおぼし出つゝ、などて、つ

ゐにはをのずからみなをし給てんと、のどかに

思ひて、なをざりのすさひにつけても、つらしと

おぼえられたてまつりけん、世をへてうとくはづか

しきものに思ひて過はて給ぬるなど、くやし

きことおほくおぼしつゞけらるれどかひなし。に

ばめる御ぞ奉れるもゆめのこゝちして、われさき

だゝましかば、ふかくそめ給はましとおぼすさへ
   源
   かぎりあればうすずみごろもあさけれどな

みだぞ袖をふちとなしける。とてねんずし給へる

さまいとゞなまめかしさまさりて、きやうしのびやかに

よみ給つゝ、ほうかいざんまいふげん大゛しとうちの給
                           夕霧
へる、をこなひなれたるほうしよりはけなり。わか君゛

をみ奉り給にも、√なにゝしのぶのといとゞつゆけゝ

れど、かゝるかたみさへなからましかばとおぼしなぐ
    大宮
さむ。宮はしづみいりてそのまゝにおきあがり給は

ず。あやうげに見え給を、又おぼしさはきて、御い

のりなどをさせ給。はかなくすぎゆけば御わざ

のいそぎなどをさせ給も、おぼしかけざりしこと

なれば、つきせすいみじうなん。なのめにかたほな

るをだに、人のおやはいかゞ思ふめる。ましてことは


(哀れ)少なからぬに、大臣の闇にくれ惑ひ給へる樣を見給ふも、理りに

いみじければ、空のみ眺められ給ひて、

  昇りぬる煙(けぶり)はそれと分ねどもなべて雲居の哀れなるかな

殿におはし着きても、つゆ微睡まれ給はず。年頃の御有樣をおぼし出でつ

つ、などて、遂には自ずから見直し給ひてんと、長閑に思ひて、等閑のす

さびにつけても、辛しと覚えられ奉りけん、世を経て、うとく恥づかしき

物に思ひて、過ぎ果て給ひぬるなど、悔しき事多くおぼし続けらるれど、

甲斐無し。鈍ばめる御衣奉れるも夢の心地して、我先立たましかば、深く

染め給はましとおぼすさへ、

  限りあれば薄墨衣浅けれど涙ぞ袖をふちとなしける

とて念誦し給へる様、いとどなまめかしさ勝りて、経忍びやかに読み給ひ

つつ、「法界三昧普賢大士」とうち宣へる、行ひ馴れたる法師よりはけな

り。若君を見奉り給ふにも、「√何に忍の」といとど露けけれど、係る形

見さへ無からましかばとおぼし慰さむ。

宮は沈み入りて、そのままに起き上がり給はず。あやうげに見え給ふを、

又おぼし騒ぎて、御祈りなどをさせ給ふ。儚く過ぎゆけば、御わざの急ぎ

などをさせ給ふも、おぼしかけざりし事なれば、尽きせずいみじうなん。

なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる。まして理


和歌
源氏
昇りぬる煙はそれと分ねどもなべて雲居の哀れなるかな

意味:昇って行く煙は雲と混じり合って、葵の荼毘のものだとはっきりとは分からないが、雲全体が哀れに思えて眺めてしまう。

備考:

 

源氏
限りあれば薄墨衣浅けれど涙ぞ袖をふちとなしける

意味:妻の喪は3ヶ月という決まりがあり、その期間は薄墨の藤衣を着るが、色は薄いが悲しみは深く、涙が溜まって袖を淵としてしまった。

備考:藤衣と淵の掛詞。浅しと淵は縁語。

 

引歌
√何に忍の

後撰集 雑歌二
 兼忠朝臣、母身まかりにければ、兼忠をば故枇
 杷左大臣の家に、娘をば后の宮にさぶらはせむ
 とあひ定めて、ふたりながら、まづ枇杷の家に
 渡し送るとて、加へて侍りける
             兼忠朝臣母のめのと
結び置きし形見の子だになかりせば何に忍の草をつままし

コメント一覧

jikan314
@shou1192_2010 ポエット・M様
いつもめんどくさい短歌を投稿して、お手数をお掛けしております。
見たままの風景を共有し、小生の思いを読む人に伝えたい。でも、誰も自由律に共鳴したいとは思わないのに、ポエット・M様が仲立となって御解説頂き、感謝申し上げます。
ツァラトゥストラが、神が死んだことを知り、絶対者がいなくなった世界で、人間は超人に成ると言う驕りをキューブリックは、表現しているかと思っております。
ゾロアスターの方が馴染みが有ります。
鰻食べ次は焼肉欲の果て
shou1192_2010
自閑(jikan314)さん こんにちは。
早々に「水曜サロン」へ出詠頂きありがとうございます。

「2001年宇宙の旅」は1968年に公開され、スタンリー・キューブリック監督が人類の進化の可能性を追求し、SF映画ならではのワクワクを盛り込み、息をのむような素敵な映画に仕上がっていたと記憶しています。

しかし、AIの暴走により人類が滅んでしまうかもしれない、という危険性をも指摘していて、かなりの先見性が見てとれます。この時点でのAIは未だ萌芽の状態でしたから…。

また、ご指摘のように「全知全能の神のように振る舞い、今も戦争で殺し合い」をする、人間の驕りへの警鐘を鳴らしていたと感じます。

なお、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの後期思想を代表する著作、『ツァラトゥストラはかく語りき』は1980年代中期に、ブームになりましたが「文語の格調」へ私も賛意に送りたいと思います。

また、「伊勢物語、源氏物語、今昔物語」等々を原書で学ばれる自閑(jikan314)さんには頭が下がります。源氏物語だけでも、54帖、400字詰め原稿用紙で約2400枚に及ぶ大作ですので、
どうしても翻訳本に頼ってしまいます。
「掛詞、本歌取り」は、この物語の和歌の中でも、かなり駆使されていて学びになりますね。

なお、これからも宜しくお願い致します。
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