関寺小町 三番目物 世阿弥作?
近江の関寺の住僧が、七月七日稚児の和歌の上達を願って、歌道極めている近くに住む老女の庵を伴って訪ね、難波津、安積山の謂れを語り、衣通姫や「わびぬれば」の事から、老女は小野小町と知る。僧は七夕祭に小町を誘い、稚児の舞を見て自分も舞い始める。そして夜明けとともに老残の身を恥じつつ自分の庵に帰っていく。
シテ:老女(小野小町)、子方:関寺稚児、ワキ:関寺住僧、ワキヅレ:随伴の僧
地 げにや包め共、袖にたまらぬ白玉は、人を見る目の涙の雨、古ことのみを思ひ草の、花萎れたる身の果てまで、なに白露の名殘ならむ。
シテ 思ひつつ寝ればや人のみえつらんと
同 讀みしも今は身の上に、ながらへ來ぬる年月を、送り迎へて春秋の、露往霜來つて霜葉變じ、蟲の音も嗄れたり
シテ 生命既に限りとなつて
同 ただ槿花一日の榮に同じ。
同 あるはなく、なきは數添ふ世中に、あはれいづれの、日まで歎かむと、詠ぜじ事も我ながら、いつまで草の花散じ、葉落ても殘けるは、露の命なりけるぞ、戀しの昔や、しのばしの古の身やと、思ひし時だにも、また古ことに成行身の、せめて今は又、初の老ぞ戀しき、あはれ實いにしへは、一夜泊まりし宿迄も、玳瑁を飾り、垣に金花を掛け、戸には水晶を連ねつつ、鸞輿屬車の玉衣の、色を飾りて敷妙の、枕づく、妻屋の内にしては、花の錦の褥の、起き臥しなりし身なれども、今は埴生の、こや玉を敷きし床ならむ
シテ 関寺の鐘の聲
同 諸行無常と聞くなれ共、老耳には益もなし、相坂の山風の、是生滅法の、理をも得ばこそ、飛花落葉の折々は、好ける道とて草の戸に、硯を鳴らしつつ、筆を染て藻鹽草、書くや言の葉の枯れ/\に、哀なる樣にて強からず、強からぬは女の歌なれば、いとどしく老の身の、弱り行果ぞ悲しき。
※あるはなく、なきは數添ふ世中に、
あはれいづれの、日まで歎かむと
巻第九 哀傷歌 850
題しらず 小野小町
あるはなくなきは數添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かむ
ワキツレ いかに申候、七夕の祭遅なはり候、老女をも伴ひ御申候へ
ワキ いかに老女、七夕の祭を御出有て御覽候へ
シテ いや/\老女が事は憚りにて候程に、思ひもよらず候
ワキ なにの苦しう候べき、唯々御出候へとよ。
同 七夕の、織絲竹の手向草、いく年經てかかげろふの、小野の小町の百年に、及や天津星合ひの、雲の上人に馴れ/\し、袖も今は麻衣の、淺猿やいたはしや、目も當てられぬ有樣。
※手向草、いく年
巻第十七 雑歌中 1586
朱鳥五年九月紀伊國に行幸の時 河嶋皇子
白波の濱松が枝のたむけぐさ幾世までにか年の經ぬらむ
写真
小町塚
小野小町供養搭
関寺跡
関寺小町説明