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新古今和歌集の部屋

西行物語 菩提心

発菩提心

 かくて、日西に傾き、月東にいづるほどに及びて、あひしたしき佐藤さゑもんのじようのりやすといふ者とうちつれてまかりいづ。道にて、憲康語りける。

われらが祖先ひでさと將軍とうゐきをしづめてよりこのかた、久しくてうかの御守りとして、世を鎮む。今、われらに至るまで、たうだいのてうおんに浴して、廣くほまれをほどこす。このほどいかにやらむ。何事もただゆめまぼろしのここちして、今日あればとて、あすを待つべき身ともおぼえず。あはれいかならむたよりもがな。家をいで、さまを變へ、かたやまざとの住まひも、あらまほしくこそおぼゆれ。

など、まことしく語れば、のりきよも

今さらかかる事を語るは、いかならむづるやらむと胸うち騷ぎ、たがひにたもとをしぼりける。

さてのりきよは、

あしたはたれも急ぎとばどのへ參るべきなり。うち寄り、さそひ給へ

とて、しちでうおほみやにとどまりけり。

 のりきよ次の朝憲康を誘はむとて、大宮にうち寄りたりければ、かどのほとりに人多く立ち騷ぎ、内にもさまざまに悲しむ聲聞ゆればあやしと思ひて、急ぎ進み寄り、何事ならむと思へば、

殿はこよひ、ねじにに死なせ給ひぬ

とて、十九になる妻、七十いうよなる母、あとまくらに倒れ伏して泣き悲しむ。

 これを見るに、かきくらすここちして、

かくあらむとて、思はざるほかの世のはかなき事を語りけると思ふにも、はじめて驚くべき事ならねども、あやなしといふも愚かなり。わが身も身ともおぼえず、いとどうとましきかたのみしげくて 

朝ニ紅顏有ツテ世路ニ誇リ 朝有紅顏誇世路

夕ニ白骨ト成ツテ郊原ニ朽ツ 夕成白骨朽郊原

と口すさび、せうすいのうをに心を澄まし、としよのひつじに思ひをかけ、やがてここにて、もとどり切らましく思へども、今ひとたび、りようがんをも拝し、おんいとまをも申さむと思ひて、駒にむちをすすめて參りけり。

 そもそもこの人は、のりきよには二年の兄にて、二十七ぞかし。らうせううぢやうの習ひといひながら、あはれにおぼえて、

越えぬればまたもこの世に歸りこぬしでのやまぢぞ悲しかりける

世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな

としつきをいかでわが身に送りけむ昨日見し人今日はなき世に

 ことにきらめきて參りたりければ、折ふしとばどのにはぎょいうありけるに、やがてのりきよを召される。御遊はててのち、とうのべんどのをもて、出家のいとまを申しいれたりければ、思はずのほかのみけしきなりとばかりに仰せ下されけれども、君のおんいましめを恐れ、今度出家をとどまりて、また愛着の住みか歸りなば、いつをかごとすべき。それきおんにふむゐはにょらいの教へ。へいはつぜねはげだつのかどでなりとくわんじて、きんちゆうをまかりいでけるにも花のもとのかうかく、月の前の門人につらならむも、ただ今ばかりなり。とおぼえて、たびたびせんとうをかへりみ、駒を控へ控へ、泣く泣く作り道にぞかかりける。

さても過ぎにしきさらぎの頃、出家の事を思ひ定めたりしに、折ふし空霞み、心細かりに、

空になる心は春の霞にて世にあらじとも思ひ立つかな 

 志淺からずといへども、そのごやきたらざりけむ何となきわざどもにさへられて、空しくはせ過ぎぬ。

 同じ秋の頃思ひ立ちたりしに、風の音さへ物哀れに、月の光もくまなかりければ、

おしなべて物を思はぬ人にさへ心を付くる秋の初風

世の憂さにひとかたならず浮かれ行く心とどめよ秋の夜の月

物思ひてながむる頃の月の色にいかばかりなるあはれ添ふらむ

 秋もむなしくのがれぬ。願はくはさんぽう、このたびの出家さはりあらせ給ふなと、祈り申して歸りけり。

 ゆふべに及びしゆくしょに歸りさしいれば、年頃いとほしく思ふ娘の四つになるが、振り分け髪も肩過ぎぬほどにて、よにらうたげなる有樣に、何心なくえんに走りいでて、

 父のおはしますうれしさよ。などや遅く御歸りありける。君の御許しなかりけるに

やなどいひて、よにいとけなきなでしこの姿にて、かりぎぬのたもとにすがりけるを、たぐひなくいとほしくは思へども、すぎぎにしかた、出家を思ひとどまりしも、この娘ゆゑなり。されば第六天の魔王は、いつさいしゆじやうの仏にならむことをさへむがために、妻子といふきづなを付け置き、しゆつりの道を防ぐといへり。これを知りながら、いかで愛着の心をなさむや。これこそ陣の前の敵、ぼんなうのきづなを切るはじめなりと思ひて、この娘情なくえんよりしもへ蹴落としたりければ、小さき手を顏におほひ、なお父を慕ひ泣きければ、これにつけても心苦しくは思へども、聞き入れぬさまにて内にいりぬ。

 かたはらの女房、しもべにいたるまで、よにあへなき事に思ひて、

こは、いかなる事やらむ

と騷ぎ合へり。しかれどもかの女房は、かねてより父の出家の志ある事を知りたりければ、娘の泣き悲しむ事をも、驚く色なし。

 これにつけてもあはれにおぼえて、

露の玉消ゆればまたもあるものを頼みもなきはわが身なりけり


※ 越えぬれば

  出家して彼岸に到達しなければ、何時死ぬかもわからないから、死んでしまうとまたこの世に生まれ、六道輪廻から脱することはできない。そんな死出の旅は悲しいものです。

※ としつきを
  1748 第十八 雜歌下

※ おしなべて
    299 第四 秋上

※ 物思ひて
   1269 第十四 戀歌四

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