新古今和歌集の部屋

以仁王流矢

○木津川市以仁王陵

源平盛衰記 卷第十五

宮中流矢事

宮ハ平等院ヲ落サセ給ツゝ、男山八幡大菩薩ヲ伏拝御座シテ、新野ノ池モ過サセ給ヒテ、井出ノ渡ト云所マデ延サセ給ヒケリ。御寝モナラズ喉モ乾セマシ/\テ、水進度思召レバ、小河ノ流タリケルヲ汲テ進ケリ。此所ヲバイヅコト云ゾ、又此河ヲバ何ト云ゾト御尋アリ。此辺ヲバ、山城国井出ノ渡ト申、河ヲバ水ナシト申候ト答申ケレバ、打頷許セ給テ、思召ツゞケケルハ、

山城ノ井出ノ渡ニ時雨シテ水ナシ川ニ浪ヤ立ラン

○写真:井手の玉川

ト御口ズサミ有リテ、光明山ヘカゝラセ給ニ、軍兵後ヨリ追係進セケルガ、何者ガ射タリケル矢ヤラン、鳥居ノ前ニテ流矢来ツテ、宮ノ御カタ腹ニ立タリケレバ、即御馬ヨリ真逆ニ落サセ給フ。ヤガテ消入セ給テ御目モ御覽シアケズ。園城寺法師ニ、讃岐阿闍梨覺尊ト云者、長絹ノ衣ニ違袖シテ、下ニ腹卷著テ、御伴ニ候ケルガ、馬ヨリ飛デ下リ奉拘。御伴ノ人々ハ未追付進セズ、黒丸ト申舎人計ゾ候ヒケル。覺尊ト二人シテ、相構ヘテ御馬ニ掻ノセ進セントスル処ニ、飛騨判官景高奉見之、鞭ヲ揚テアレ/\ト云ケレバ、郎等落合テ、宮ノ御頸ヲバ取テケリ。悲ト云モ疎也。寺法師律浄坊ノ日印ノ弟子ニ伊賀坊、乗圓坊ノ慶秀ガ弟子ニ刑部房、残リ留テ、命モ惜マズ戦ケリ。白刃ヲ拭ニ隙ナシ。爰ニシテ飛騨判官ガ郎等多打レニケリ。律浄坊日印モ、打死シテ失ニケリ。心ハ猛ク思ヘドモ、小勢ハ力及バズシテ、伊賀房、刑部房、奈良ノ方ヘ落ニケル。

○写真:木津川市律浄塚

彼律浄坊ト申ハ、兵衞佐頼朝ノ流人ニテ伊豆ニ御座セシ時、忍デ諸寺諸山ノ僧徒ニ祈ヲ付給ヒケルニ、寺ニハ此律浄坊ヲ以テ師匠ニ憑給ヘリ。日印八幡宮ニ參篭スル事、千日、無言大般若ヲ讀ケルニ、七百日ニ当ル夜、御宝殿ヨリ金ノ鎧ヲ給ト示現ヲ蒙リタリケレバ、悦ヲナシ、夜ヲ以日ニ繼伊豆国ヘ馳下、此由兵衞佐殿ニ語申。聞給テ、イカ様ニモ末憑モシキ事ニコソト夢合シ給テ、世ニ候ハバ思知べシト宣タリケルガ、平家滅亡ノ後ニ、兵衞佐殿三井寺ヘ尋給ケルニ、治承ノ比高倉宮ノ御伴申テ、光明山ノ鳥居ノ辺ニテ打死也ト申タリケレバ、不便ノ事ニコソ、且ハ祈ノ師也、又夢ノ勧賞モ宛給ハント思シニ、死ケル事ノ無慙サヨ、但其人ナケレバトテ、兼テ存ぜシ事争カ空カルべキトテ、伊賀国山田郷ヲ三井寺ヘ寄ラレテ、律浄坊ガ孝養報恩無退轉トゾ聞ユル。

コメント一覧

sakura
それは欠点なのでしょうか?
「花鳥風月」を拝見させていただきました。
歴史学者の定説を覆そうと、彷徨われている在野の
研究者である自閑さまを影ながら応援しております。

昨年末に解散しましたが、当時所属していたPC同好会会長から
新年会の席で、まだの人もブログを開設するようとの
お達しがあり、私も仕方なく始めることにしました。

何をしていいのかわからず、困り果てた末に好きな史跡めぐりをしようと決め、
京都やその近郊へ行って手当たり次第に写真を撮り、
タイトルも「流れる雲のままに…」とし見切り発車しました。

しかし今一つ気が乗らなさそうにしているのを見かねた夫が
「テーマを決めた方がいい、源平をやれば誰かが
見てくれるよ。」とアドバイスしてくれました。
そこでいつか全巻読みたいと思いながらそのままになっていた
「平家物語」を読むことに決め、タイトルも変えました。
そんなわけで、私は自身が物語を読むためにブログを書いているようなものです。

自閑さまとは、これまで積み重ねてきたものが違いますから、
これからも歴史家の研究成果や伝説をそのまま受け入れ、
物語を読み進めていきます。
jikan314
Re:Re:沢山のコメントありがとうございました。
推敲させて下さい。
茶を飲んで残暑の道も半ばかな
推敲
茶を飲んで残暑を越ゆる道半ば

頼政の最後を思うと道半ばが良いかと
満仲の子孫と言う掛詞でも有ります。
jikan314
Re:こんにちは!
sakura様
何時も貴blogを見て思っています。郷土と伝説を愛する者がいて、それを後代に残そうとしている方々がおられ、その姿を伝えようとするsakura様がいらっしゃる。
私の欠点は、その伝説を検証し否定してしまう事です。
平家にとっては、以仁王を奉じて、反平家方が大挙して押し寄せる恐怖。これは令旨となって現実となるのですが、疑心暗鬼となった平家にとっては、生存伝説が生まれる素因となっていますよね。
文武両道は当時でも尊敬の対象ですし、頼朝、実朝も同じく文武両道を十訓抄などで言われております。
jikan314
Re:沢山のコメントありがとうございました。
今やっと黄檗です。
図書館で、宇治市史を読んで、萬福寺を出た所です。

茶を飲んで残暑の道も半ばかな
今日は夏日となったので。
sakura
沢山のコメントありがとうございました。
家を留守にしていました。今帰ってきました。
明日にでもお返事させていただきます。

山吹は復活しています。
ある春の日、玉川に行くと、山吹が堤一帯に咲き誇っていました。
自閑さまも機会があれば一度おたずねになって下さい。

駒とめて なほ水かはむ 山吹の花の露そふ 井手の玉川
sakura
こんにちは!
自閑さま
以仁王の御陵に参拝して下さったのですね。ありがとうございます。

井手の玉川といえば、井手の左大臣を思い出しますが、
お写真は川辺に咲く山吹でしょうか。

ところでそちらではこのチャンネルはないのかもしれませんが、
大阪テレビの朝の番組で街道歩きを放送しています。

先日は会津西街道の300年前の町並みが残る大内宿を紹介していました。
この宿には、南山城を逃れた以仁王が潜行していたという伝承があり、
以仁王を祀る村社高倉神社もありました。
一の鳥居、二、三の鳥居がたち、杉林の奥に拝殿があります。
本殿の背後には樹齢800年という大杉が聳えていました。

「玉葉」「山塊記」によれば、南山城で自害を遂げた遺体が三体ありましたが、
そのうち首のないものが一体あり、これが以仁王のであろうと
推測されましたが確定できませんでした。

王への同情もあり以仁王生存説が残り、実は以仁王は追討の軍から逃れ、
東国で生き延び頼朝や義仲を指揮しているという噂がありました。
それに基づいて建てられた神社だと思います。
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