源氏物語 紅梅
「御前の花、心ばへありて見ゆめり。兵部卿宮、内裏におはすなり。一枝折りて参れ。知る人ぞ知る」とて、
「あはれ、光る源氏、と云はゆる御盛りの大将などにおはせし比、童にて、かやうにて交じらひ馴れ聞こえしこそ、世とともに恋しう侍れ。この宮たちを、世人も、いとことに思ひ聞こえ、げに人にめでられむとなり給へる御有樣なれど、端が端にも覚え給はぬは、猶類ひあらじと思ひ聞こえし心のなしにやありけむ。大方にて、思ひ出で奉るに、胸あく世なく悲しきを、気近き人の後れ奉りて、生きめぐらふは、おぼろけの命長さなりかし、とこそ覚え侍れ」など、聞こえ出で給ひて、物哀れにすごく思ひ巡らし萎れ給ふ。ついでの忍びがたきにや、花折らせて、急ぎ參らせ給ふ。
「いかがはせむ。昔の恋しき御形見には、この宮ばかりこそは。仏の隠れ給ひけむ御名殘には、阿難が光放ちけむを、二度出で給へるかと疑ふさかしき聖のありけるを、闇に惑ふはるけ所に、聞こえをかさむかし」とて、
心ありて風の匂はす園の梅にまづ鴬の訪はずやあるべき
と、紅の紙に若やぎ書きて、この君の懐紙に取りまぜ、押したたみて出だしたて給ふを、幼き心に、いと馴れ聞こえまほしと思へば、急ぎ參り給ひぬ。
紅梅大納言の匂宮兵部卿に梅の枝奉るとて
紅梅大納言
心ありて風の匂はす園の梅にまづ鴬の訪はずやあるべき
よみ:こころありてかぜのにほはすそののうめにまづうぐひすのとはずやあるべき
意味:思惑があって風が匂いを吹き送る園の梅(中君)に、先ず鴬(匂宮)が訪れるべき
備考:本歌 古今集 春歌上
寛平御時きさいの宮のうたあはせのうた
紀友則
花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる
寛平御時きさいの宮のうたあはせのうた
紀友則
花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる
紅梅
紅梅大納言
太夫の君(紅梅大納言息)
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
27.5cm×44.5cm
令和5年11月15日 伍/肆