硫黄島を今年も走りました。
結果から先に。
47分かけて、8.5キロ(およそ)を走りました。
走った場所は、祈念館から、北に向かい、昨年と同じ地点(壁画への曲がる場所より先まで)で折り返し、祈念館前通過して、平和祈念旧島民墓地公園で、折り返し、祈念館へ。ここまでは去年と同じで、
さらにまた、祈念館を通過して、壁画まで行って、壁画前で折り返して
祈念館でゴール。
すれ違った、自衛隊ランナーさんは一人だけでした。
昨年よりは、気温は低かったと思いますが、走った時間は早かったので、
陽射しは高かったです。
今年は、おが丸からの上陸と戻り、やや波が出ていて、天候も崩れる
懸念がありました。
一日目の慰霊祭の時点では、「二日目日程断念で戻るかも。
決定は昼。」ということでした。
その後、祈念館で昼食のお弁当をたべた時点では、
午後の
「それぞれの出身集落への里帰り」は決行、ただし、
15:00時点の決定で、二日目断念で、祈念館宿泊予定で
荷物多めにおろしたメンバーも、おが丸に戻るという選択肢が
検討されている。
でした。
元山集落だった場所付近(硫黄ヶ丘周辺、硫黄島神社)を、
元山出身グループの皆さんと回って戻ったのは、14:30でした。
その時に、4班の班長(誠意があって親身な引率者の鑑のような方)に
「走りに行きたい。勝手に行けないので、慰霊墓参島民引率責任者に
許可してもらえるか確認して欲しい。」と依頼しましたところ、
「15:00時点の二日目あるのか船に戻るのか決定後ただちに
きいてみます。」ということになりました。
15:00には、無事に「二日目日程も決行、宿泊予定者は
そのまま宿泊準備へ。おが丸宿泊者は乗船に向けてのバスに乗る
準備を」と発表されました。
班長が、責任者(お二人とも小笠原村役場職員)に、
掛け合ってくれました。
「時間は90分から、もう少しかかるぐらいで、ここから、
擂鉢山往復が希望です。」と、二人に伝えましたところ、
「この時間から90分は、夕食準備終わって、いろいろ祈念館も
忙しくなる時間にかかってしまう。もっと短い時間で、
30分から40分なら許可します。」ということでした。
理由も明確に、時間も明確に、回答いただけたので、
異存は全くありませんでした。
「去年と同じこの祈念館からあまり離れないコースを、少し長めに」
と決めました。
持っていったハイドレーション内臓ザックも、40分とかでしたら
重いだけで不要と、去年と同じ、アミノバリューBCAA4000 500ml
ペットボトルを持って、
去年は帽子なしでタオルをかぶりましたが、今年は、首を覆う帽子の方では
なく普通の帽子をかぶって出かけました。
さすがに、暑かったです。
走り終わって、ストレッチしている時、身体にこもった熱が、なかなか
出て行かなくて、「これは暑い」と思いました。
ペースは去年より、さらに抑え目で、心拍もそんなに上げずに
慎重に走りました。
その日のお弁当は、祈念館宿泊者は寝る部屋で、
他の島民訪問メンバーは、祈念館食堂で食べましたが、
中学生や父島からの参加の方などがお弁当を食べる場所として
昨年同様に祈念館前にテントを張ってくれていました。
島唐辛子を、昼の弁当を食べた直後や、
14:30から15:00の間とかに、
祈念館隣のいつもの木や、「島唐辛子の木の場所の第一人者の方の
一人(一昨年も、去年も一緒にとらせてくれた人」が、
知っている、少し離れた木とかで、摘んだりしていました。
かなり、たくさんの実を摘みました。
15:00に、二日目決行と、走ってよい許可、時間が決まって、
着替えて、出かけようとすると、
いつものおなじみの中心人物の人たち が、
「なにやら、大きな、枝」を持ってきて、
テント下に、5,6人で陣取りました。
「どうしたんですか?」と訊くと、「唐辛子、枝ごと持ってきた。」と
いう答え!
さすが、硫黄島島民! やることが豪快、大胆、痛快です。
ある島民の方で、
今も戦前の住居跡が分かる方の庭の
島唐辛子の木から、切ってきたそうです。
後から聞いたところによりますと、
木を一本ではなく大きく分かれた幹から上、一つ全体分を
きってきたそうで、ですから、来年には、また、その木は
葉と実をたくさんつける切り方をしてきて、木を丸一本という
のとは違う切り方をしてきたそうです。
うちでプランターで育てている、島唐辛子についても、
前に書きましたが、枝別れしたそれぞれが、どんどん成長するのが
島唐辛子の特長です。
ランニングの、スタートとゴールの間に、2回、祈念館の前を
通りましたが、皆さん、大きな、島唐辛子の枝から摘む作業で
一生懸命でした。テント蔭で作業している前をとおると、
「あの走ってるのうちの一行の一人だよね」という声や、
「おーい!あまり無理するなよ。」などの声援などが聞こえました。
島唐辛子枝処理班の作業は、私が走るより前から始まって、
走り終わってもまだ、やっていました。いずれも方島、超ベテランの
方々が、枝処理にあっていました。
「そんなに、長い時間摘むほどの実の数は、いくら、大きい枝だからって、
ないだろうに。どうして、ずっとやってるのか?」と不思議に思いながら
走って通過するときに見ると、どうやら、実を取っているのではなく
葉をもいでいるらしいのに気がつきました。
祈念館での夕食と、翌日の朝食の食卓に、
「島唐辛子の葉の醤油炒め」が出ました。
5回目の訪問で、いろいろ、硫黄島ならではのものを食べさせてもらってきましたが初めてでした。
ぴり辛ではありませんでした。今まで食べたもののなかで一番近いのは、
高菜炒め(味は違いますが、似た調理法)。
ご飯にも合うし、美味でした。
あんなに暑い中、時間をかけてたっぷり摘んだ葉も、
炒めてしまうと嵩が減ってしまいます。それでも、硫黄島から父島に
戻る船内で、船宿泊組の人も食べられるぐらいの量は作ってくれていました。
写真は、祈念館の前から、走った道を、平和祈念旧島民墓地公園(進むと
先に擂鉢山)方面を撮影したものです。
去年も同じ場所、同じ角度で撮った写真があり、
このブログに載せていますが、大きな違いがあります。
去年の、この角度の写真では、道の先に、釜岩沖停泊の小笠原丸が写っているのですが、今年のにはありません。
今年は、この写真の道の先より、もっと左側に、おが丸はいました。
非常に微妙で難しい操船技術で、海の波の具合(次の日の見込みも含めて)、
潮の具合、もちろん水深、などを考えて、私どもを一番安全に、上陸させられる、ぎりぎりの位置を、繋留位置にしているから、毎年違うんだな、ということが
よく分かる1枚の写真です。
一昨年と去年は、ほぼ同じ位置に繋留だったという記憶があります。
あらためまして、毎年、私たちが訪問できるのは、多くの、
事前に準備してくれている自衛隊、小笠原村の職員、艀を出して操船して下さる父島の漁業関係の皆さんなど関係者、鹿島、小笠原海運の方々
(順不同)、多くの方の、お力があってこそ実現してもらえている
ことに、こころから感謝申しあげます。
また、来年も、もっと走力をつけて、
擂鉢山往復狙います。硫黄島1周駅伝など、夢はどんどん、大きく
膨らみます。
結果から先に。
47分かけて、8.5キロ(およそ)を走りました。
走った場所は、祈念館から、北に向かい、昨年と同じ地点(壁画への曲がる場所より先まで)で折り返し、祈念館前通過して、平和祈念旧島民墓地公園で、折り返し、祈念館へ。ここまでは去年と同じで、
さらにまた、祈念館を通過して、壁画まで行って、壁画前で折り返して
祈念館でゴール。
すれ違った、自衛隊ランナーさんは一人だけでした。
昨年よりは、気温は低かったと思いますが、走った時間は早かったので、
陽射しは高かったです。
今年は、おが丸からの上陸と戻り、やや波が出ていて、天候も崩れる
懸念がありました。
一日目の慰霊祭の時点では、「二日目日程断念で戻るかも。
決定は昼。」ということでした。
その後、祈念館で昼食のお弁当をたべた時点では、
午後の
「それぞれの出身集落への里帰り」は決行、ただし、
15:00時点の決定で、二日目断念で、祈念館宿泊予定で
荷物多めにおろしたメンバーも、おが丸に戻るという選択肢が
検討されている。
でした。
元山集落だった場所付近(硫黄ヶ丘周辺、硫黄島神社)を、
元山出身グループの皆さんと回って戻ったのは、14:30でした。
その時に、4班の班長(誠意があって親身な引率者の鑑のような方)に
「走りに行きたい。勝手に行けないので、慰霊墓参島民引率責任者に
許可してもらえるか確認して欲しい。」と依頼しましたところ、
「15:00時点の二日目あるのか船に戻るのか決定後ただちに
きいてみます。」ということになりました。
15:00には、無事に「二日目日程も決行、宿泊予定者は
そのまま宿泊準備へ。おが丸宿泊者は乗船に向けてのバスに乗る
準備を」と発表されました。
班長が、責任者(お二人とも小笠原村役場職員)に、
掛け合ってくれました。
「時間は90分から、もう少しかかるぐらいで、ここから、
擂鉢山往復が希望です。」と、二人に伝えましたところ、
「この時間から90分は、夕食準備終わって、いろいろ祈念館も
忙しくなる時間にかかってしまう。もっと短い時間で、
30分から40分なら許可します。」ということでした。
理由も明確に、時間も明確に、回答いただけたので、
異存は全くありませんでした。
「去年と同じこの祈念館からあまり離れないコースを、少し長めに」
と決めました。
持っていったハイドレーション内臓ザックも、40分とかでしたら
重いだけで不要と、去年と同じ、アミノバリューBCAA4000 500ml
ペットボトルを持って、
去年は帽子なしでタオルをかぶりましたが、今年は、首を覆う帽子の方では
なく普通の帽子をかぶって出かけました。
さすがに、暑かったです。
走り終わって、ストレッチしている時、身体にこもった熱が、なかなか
出て行かなくて、「これは暑い」と思いました。
ペースは去年より、さらに抑え目で、心拍もそんなに上げずに
慎重に走りました。
その日のお弁当は、祈念館宿泊者は寝る部屋で、
他の島民訪問メンバーは、祈念館食堂で食べましたが、
中学生や父島からの参加の方などがお弁当を食べる場所として
昨年同様に祈念館前にテントを張ってくれていました。
島唐辛子を、昼の弁当を食べた直後や、
14:30から15:00の間とかに、
祈念館隣のいつもの木や、「島唐辛子の木の場所の第一人者の方の
一人(一昨年も、去年も一緒にとらせてくれた人」が、
知っている、少し離れた木とかで、摘んだりしていました。
かなり、たくさんの実を摘みました。
15:00に、二日目決行と、走ってよい許可、時間が決まって、
着替えて、出かけようとすると、
いつものおなじみの中心人物の人たち が、
「なにやら、大きな、枝」を持ってきて、
テント下に、5,6人で陣取りました。
「どうしたんですか?」と訊くと、「唐辛子、枝ごと持ってきた。」と
いう答え!
さすが、硫黄島島民! やることが豪快、大胆、痛快です。
ある島民の方で、
今も戦前の住居跡が分かる方の庭の
島唐辛子の木から、切ってきたそうです。
後から聞いたところによりますと、
木を一本ではなく大きく分かれた幹から上、一つ全体分を
きってきたそうで、ですから、来年には、また、その木は
葉と実をたくさんつける切り方をしてきて、木を丸一本という
のとは違う切り方をしてきたそうです。
うちでプランターで育てている、島唐辛子についても、
前に書きましたが、枝別れしたそれぞれが、どんどん成長するのが
島唐辛子の特長です。
ランニングの、スタートとゴールの間に、2回、祈念館の前を
通りましたが、皆さん、大きな、島唐辛子の枝から摘む作業で
一生懸命でした。テント蔭で作業している前をとおると、
「あの走ってるのうちの一行の一人だよね」という声や、
「おーい!あまり無理するなよ。」などの声援などが聞こえました。
島唐辛子枝処理班の作業は、私が走るより前から始まって、
走り終わってもまだ、やっていました。いずれも方島、超ベテランの
方々が、枝処理にあっていました。
「そんなに、長い時間摘むほどの実の数は、いくら、大きい枝だからって、
ないだろうに。どうして、ずっとやってるのか?」と不思議に思いながら
走って通過するときに見ると、どうやら、実を取っているのではなく
葉をもいでいるらしいのに気がつきました。
祈念館での夕食と、翌日の朝食の食卓に、
「島唐辛子の葉の醤油炒め」が出ました。
5回目の訪問で、いろいろ、硫黄島ならではのものを食べさせてもらってきましたが初めてでした。
ぴり辛ではありませんでした。今まで食べたもののなかで一番近いのは、
高菜炒め(味は違いますが、似た調理法)。
ご飯にも合うし、美味でした。
あんなに暑い中、時間をかけてたっぷり摘んだ葉も、
炒めてしまうと嵩が減ってしまいます。それでも、硫黄島から父島に
戻る船内で、船宿泊組の人も食べられるぐらいの量は作ってくれていました。
写真は、祈念館の前から、走った道を、平和祈念旧島民墓地公園(進むと
先に擂鉢山)方面を撮影したものです。
去年も同じ場所、同じ角度で撮った写真があり、
このブログに載せていますが、大きな違いがあります。
去年の、この角度の写真では、道の先に、釜岩沖停泊の小笠原丸が写っているのですが、今年のにはありません。
今年は、この写真の道の先より、もっと左側に、おが丸はいました。
非常に微妙で難しい操船技術で、海の波の具合(次の日の見込みも含めて)、
潮の具合、もちろん水深、などを考えて、私どもを一番安全に、上陸させられる、ぎりぎりの位置を、繋留位置にしているから、毎年違うんだな、ということが
よく分かる1枚の写真です。
一昨年と去年は、ほぼ同じ位置に繋留だったという記憶があります。
あらためまして、毎年、私たちが訪問できるのは、多くの、
事前に準備してくれている自衛隊、小笠原村の職員、艀を出して操船して下さる父島の漁業関係の皆さんなど関係者、鹿島、小笠原海運の方々
(順不同)、多くの方の、お力があってこそ実現してもらえている
ことに、こころから感謝申しあげます。
また、来年も、もっと走力をつけて、
擂鉢山往復狙います。硫黄島1周駅伝など、夢はどんどん、大きく
膨らみます。