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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

これまでの訪問では無かった2009年6月硫黄島訪問での収穫!(1)

2009年07月15日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島訪問の二日間の日程の最初は参加者全員での
慰霊祭です。
それが終わると、祈念館に向かい、お弁当(おいしいです。
小笠原丸の食堂のシェフたちがつくってくれて運ばれます。)で昼食。

その後は、グループごとに行動で、
私たち島民は、戦前の出身集落ごとに分かれてバスに乗り、
里帰りとなります。

学校、村役場があった、戦前の生活の中心地でお店も多かったのが
本山でした。


一昨年と昨年、書きましたが、
一昨年は、元山里帰りは、たった二人でした。
二人とも、戦後世代(もう一人は私より若い方でした)。

昨年は少し増えて、私の同行者二人もいたので、7人ぐらいでした。

今年は、もっと増えて、10人以上、元山里帰りグループがいました。


出身ごと、グループ分けと、どうまわってどこ見るかという
打ち合わせは、小笠原丸が父島から硫黄島に向けて出航後の夜に
みんなで、集まって地図のコピーを囲んで、行われます。

一昨年は「たった二人?一番人口多かったなのに?」と
びっくり、そして、本当に心細かったです。

それが、今年の全体でも、内地からの参加者最大となった今年は、
大勢で集まって、船内打ち合わせができて、
一昨年のことがウソのような人数だったので嬉しかったです。


祖父母は元山で商店をしていました。
いろいろ食料品、その他も置いていたと聞いていますが、
お店の呼ばれ方は、「さかなやさん」でした。

その店、家の場所は、どこだったのか。今、見つかるのかどうか。
などについては、これまでに、数回、書いてきました。

15年前に、母とその兄二人と妹一人と で、
私が初めて硫黄島の土を踏んだ時には、
「家があった跡はないが、だいたいこのあたりだろう。」と、
森のあたりが、家だった場所ではないか、という話になりました。

その後、多くの、何度も訪問していて硫黄島の当時のことも
調べてくださって詳しいベテラン先輩の方々のお話によると、
そのほとんどは、「あの商店があったあたりは、今の
空港の滑走路だよ。」ということでした。


島民の、戦前にすんでいた場所と家については、
いくつかのパターンがあります。

・家の場所が分かり、そこの行ける。跡がのこっていて里帰りできる。
・家の場所は特定できて分かるが、別の自衛隊の施設建物など
になっている。
・場所は特定できている。すぐ近くまでは行ける、が道がない、
地形が厳しい、ちょっと切り倒して踏み込めない森で、たどりつけない。
・およその場所は分かるが、特定まではできない。
分かれば、そこに跡があるかもしれない。
・およその場所は分かるが、既に、空港滑走路などで
当時の面影がなく、探しに行くこともできない。


うちは、「もう、滑走路の中だよ。」と、当時の地図とも
照らし合わせても、そうだろうということでした。


昨年の「「島民の集い」の様子
「硫黄島島民の集い 模型の元山 「うちはどこ?」」
に書きましたが、

模型を作って会場に運んでもらったのと、当時の地図を
頭に思い浮かべて、祖父母の店(うち)の場所を、模型上の
どこになるかを一生懸命に考えました。
模型にはっきりと場所が分かるようになっていた、
島に一つの旅館太平館 との位置関係から、うちのさかなや
の位置を考えました。


今年の硫黄島訪問、元山里帰りグループには、
何と! 昨年の集い以来お会いする「太平館さんご子息」
(疎開時に、10歳をこえていて、当時の記憶がある。)と、
さかなや とは、お向かいさんだった、
「おとーふやさんご子息」(戦前に在住で、記憶がある。)の
お二方が、一緒だったのです。

心強い!どころではありません。
ますます、「二年前は、全然分からない同士の、戦後生まれ。
一人は初硫黄島と、こちらは親戚と一緒に船で来たのは10年以上前 の二人で、
家の位置探しどころじゃなかったな。」と心細かったことを
思い出しました。

( (2) へ続く )

写真は、15年前に伯父たちと言ったときに
「このあたりの森が家だっただろう。」となった辺り、
舗装道路から硫黄ヶ丘へ向かう道と両側の森です。
コメント (2)
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