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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

ウミガメの里親になりました! 名前も決定。

2009年07月17日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原海洋センターのウミガメの「里親制度」、
先日、申込用紙を送付いただき、申込んだ結果を
ご確認いただけたと、メールで連絡いただきました。

無事に里親になり、里子の名前も決まりました。

二人のチビちゃんガメの里親になりました。


一人の子は、私ではなく、6月に一緒に海洋センター見学を
した同行者たちが名前をつけました。

「たわし」という名前です。
カメの子 だから、ということらしいです。


もう一人の子は、
私が、「雄優(ゆうゆう)」と名づけました。

優しさで守られた小笠原の自然、雄大な海を
元気に泳げ!
たくましく優しいウミガメになって、帰ってくるように!

そして、雄と優という字を、使いたかったのでこの名前にしました。
硫黄島での激戦での戦没者のご冥福を祈り、
平和が続くようにとの心からの祈念の気持ちをこめるために
どうしても、使いたかった二文字が、
「優」と「雄」でした。


海洋センターのスタッフの方からのご報告では、
子ガメたち、みんな、いよいよ食欲旺盛で、大きくなっている
そうで、
順番に、海に戻し始めるとのことです。

希望としては、
この記事の写真の子ガメのような赤っぽい色のを「雄優」、
前に子ガメの休憩の姿勢という紹介の時に写真を載せた
黒っぽい色のを、「たわし」に、とお願いしました。

そして、海に旅立たせる候補の日も
お知らせいただきました。

7月26日の、「貞頼神社例大祭」で、代理放流していただける
そうです。

雄優!
それまでに、たっぷり食べて、大きくなって、
元気で海に出て行くように!

あ、

もう一人の たわしも 元気に旅立つように!

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これまでの訪問では無かった2009年6月硫黄島訪問での収穫!(2)

2009年07月16日 | 硫黄島・小笠原村
元山は名前のとおり、戦前は、坂もある地形だったようです。

「平地にならされてしまったから、当時の面影が全然なくて、
昔の記憶と重ねられないんだよ。」と、多くの戦前在住だった先輩が
言います。

確かに当時は台地状で坂道だったりしたものが、
平らにならされてしまったら、場所の位置関係など
記憶が混乱して、分からなくなるのも、もっともだと思います。

当時と変わらない、聳え立つ、「ランドマーク」は、
硫黄ヶ丘の 「船見岩」です。
その周辺の硫黄噴出孔は、位置や大きさを、しきりに
変えているようです。大きな噴出は同じでも、
様子が前年と変わっているのは1年でも分かります。
戦前は、もっと、大規模な硫黄の噴出があって、
最近の訪問の時に私たちが歩いている場所は歩けなくて
もっと、大回りをしていた、そうです。

私も、輸送機日帰りを含めて、4年連続5回の訪問ですから、
それに、元山が出身ですから、周辺の地理にはかなり詳しいです。
が、もちろん、私が詳しいのは今の硫黄島の地理で、
戦前のものではありません。


上陸の前の晩の、地図を囲んでの、「元山出身者グループの
里帰りについて」の打ち合わせで、
旅館太平館ご子息(以下、「太平館さん」)と、
祖父の店の向かいの豆腐店ご子息(以下、「おとーふやさん」)
のお二人の、戦前に住んでいた先輩との、
地図での位置確認などをしました。

太平館さんは、昨年秋の、「島民の集い」でも、お会いしました。
おとーふやさんは、15年前の「このあたりだろうか?」と
うちの伯父たちとの里帰りの時に一緒に、昨日記事の写真のあたりを
歩いたことを思い出しました。

慰霊祭が終わって、
いよいよ、今年は賑やかな、元山への里帰り でした。

会話もはずみます。太陽が真上ですから、
ちょっとした木陰を見つけて、休みながらの散策です。

若輩の私が、「見る場所と言っても、例年どおり、
船見岩に登って、噴出口見て、になりますよね。
明日の班行動でも同じ場所に、また来るのですけれど。」
などと、生意気なことを申し上げましたが、
元山だった場所で見る場所は他にはありません。

今年は、その後で、硫黄島神社にも行きました。
学校が近かったのが、今の硫黄島神社のあたりで、
先輩たちにも「元の硫黄島神社の場所は分からない」そうです。


今年、一番の収穫!

というのは、会話の中で、
太平館さんが、
「そちらの、さかなやさんは、滑走路には、かかっていないよ。」
とおっしゃって下さったことです。

これまで、「元山の商店があったあたりは今は滑走路」と
言われてきていて、
昨年の「集い」の、出現の模型での確認でも、
「ここが、太平館さんなら、うちの祖父の店は、やっぱり、滑走路だ。」と
ため息をつきながら、確認しました。

その模型の元になった、
当時の様子を頭から引っ張りだして、地図にして下さったのが、
「島民の集い」の会長さんです。
今年は、祈念館の宿泊で、会長さんとは同じ部屋でした。
私の祖父のことを、よく覚えて下さっている方です。
年の順では、会長さん、太平館さん、おとーふやさん、
です。


その会長さんの記憶を元に手書きされた地図が、
硫黄島駐留の自衛隊の方々が刊行してくださっている
「硫黄島新聞」という出版物にも掲載されていて、
祈念館にも、ファイルに閉じられて置いてありました。

その地図は、以前にも見ていました。

太平館さんの位置を示す(5)が、
(5)と、[5]の二つあるのです。

これまでは、「祖父の商店は、太平館より南側
(昨年の、「集い」についての当ブログの記事でも、
そのように書きました。)だと思っていたのですが、

細かい道の記憶まで、
太平館さんと、おとーふやさんとで、
話あってくれたのを参考に、地図も見直したところ、
(以下、「北」を「上」と、書きます。)

さかなや、とうふや とも、旅館太平館より
左上方向にあった。
左上に向かう道の左下が、とうふや、右上がさかなや
というお向かいさんだった。

太平館さんは今の滑走路になってしまっていますが、
そこから、ちょうど左上方向が現在の船見岩です。

という位置関係の証言が得られたのです!


お二方の記憶から、さかなや、とうふやだったと
思われる地点は、
15年前に伯父たち(長兄と、うちの母は故人)と、
「このあたりだよなぁ」と、歩いた道、
私が森の中に入っていって、「もう、危ないぞ」と
伯父に怒られた地点、、、と、ほぼぴったり一致します。

ここ数年「やっぱり、うちは、滑走路なのか、、」と、
ため息ついていた、里帰り、でしたが、
お二人の先輩が一緒だった今年は、
「あの森のあたりが家の位置だったのかな!」と期待が持てる、
里帰りになりました。

ですが、ギリギリ です。
ギリギリ、森か滑走路周遊舗装道路か、という位置です。

お二人の会話は
「噴出口からうちまで300メートルだったかなぁ」(太平館さん)
「噴出口は、今の、船見岩より、もっと、こちら、ずれていますよね。」(おとーふやさん)
「高低がなさされたから、分からないんだよ。」
という、ように進んでいました。

距離は、皆さん覚えていらしゃっても、当時と地形が変えられてしまっている
のですから、方向が、はっきりと特定はできないのです。

目印(ランドマーク)は、擂鉢山と船見岩ですが、
300メートルでも、角度が10度ずれれば、違う位置になってしまいます。

さななやと豆腐店、両方とも、今の森で滑走路にかかっていなかったか、
豆腐店だけは滑走路にかかってしまっているのか、微妙な位置では
ありますが、

「分教場があっちで、場がその先」と、いろいろ覚えて下さっている
太平館さんの、「滑走路にかかってないよ。」という、お言葉を聞いて
本当に、驚き、ジーンと胸がいっぱいになりました。

故郷の島、故郷の家。
祖父母と伯父、母とその弟妹が生まれ育った家の場所。
当時の名残はなくても、その場所がどこだったのかが
これまでよりはっきりしたのは、本当に大きな収穫でした!



写真は、硫黄ヶ丘の、「硫黄」です。
灰色のぼこぼこ吹き出ている場所も近くにありますが、
地表で固まると、硫黄の緑がかった黄色です。
場所によっては、歩くと、2、3センチ、体重でへこみ
靴跡がつくところがあります。もっと、ずぼっと行く危険な場所も
離れた場所にはあるので、歩く時も危険です。

黒こげタマナの木、船見岩の裏の方には、レモングラス自生、
右の森の入り口には、昨年タコの実をとった、木など、
それらは昨年どおりでした。

生前の母は、
よく「あんたにそんなに訊かれても、本当は、8歳だったし、
よく覚えていないんだよ。立派な軍人さんが校庭に来たのと、
店の様子と、大きい暴れ牛飼っていたのは覚えているけれど。」
と、言ってました。
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これまでの訪問では無かった2009年6月硫黄島訪問での収穫!(1)

2009年07月15日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島訪問の二日間の日程の最初は参加者全員での
慰霊祭です。
それが終わると、祈念館に向かい、お弁当(おいしいです。
小笠原丸の食堂のシェフたちがつくってくれて運ばれます。)で昼食。

その後は、グループごとに行動で、
私たち島民は、戦前の出身集落ごとに分かれてバスに乗り、
里帰りとなります。

学校、村役場があった、戦前の生活の中心地でお店も多かったのが
本山でした。


一昨年と昨年、書きましたが、
一昨年は、元山里帰りは、たった二人でした。
二人とも、戦後世代(もう一人は私より若い方でした)。

昨年は少し増えて、私の同行者二人もいたので、7人ぐらいでした。

今年は、もっと増えて、10人以上、元山里帰りグループがいました。


出身ごと、グループ分けと、どうまわってどこ見るかという
打ち合わせは、小笠原丸が父島から硫黄島に向けて出航後の夜に
みんなで、集まって地図のコピーを囲んで、行われます。

一昨年は「たった二人?一番人口多かったなのに?」と
びっくり、そして、本当に心細かったです。

それが、今年の全体でも、内地からの参加者最大となった今年は、
大勢で集まって、船内打ち合わせができて、
一昨年のことがウソのような人数だったので嬉しかったです。


祖父母は元山で商店をしていました。
いろいろ食料品、その他も置いていたと聞いていますが、
お店の呼ばれ方は、「さかなやさん」でした。

その店、家の場所は、どこだったのか。今、見つかるのかどうか。
などについては、これまでに、数回、書いてきました。

15年前に、母とその兄二人と妹一人と で、
私が初めて硫黄島の土を踏んだ時には、
「家があった跡はないが、だいたいこのあたりだろう。」と、
森のあたりが、家だった場所ではないか、という話になりました。

その後、多くの、何度も訪問していて硫黄島の当時のことも
調べてくださって詳しいベテラン先輩の方々のお話によると、
そのほとんどは、「あの商店があったあたりは、今の
空港の滑走路だよ。」ということでした。


島民の、戦前にすんでいた場所と家については、
いくつかのパターンがあります。

・家の場所が分かり、そこの行ける。跡がのこっていて里帰りできる。
・家の場所は特定できて分かるが、別の自衛隊の施設建物など
になっている。
・場所は特定できている。すぐ近くまでは行ける、が道がない、
地形が厳しい、ちょっと切り倒して踏み込めない森で、たどりつけない。
・およその場所は分かるが、特定まではできない。
分かれば、そこに跡があるかもしれない。
・およその場所は分かるが、既に、空港滑走路などで
当時の面影がなく、探しに行くこともできない。


うちは、「もう、滑走路の中だよ。」と、当時の地図とも
照らし合わせても、そうだろうということでした。


昨年の「「島民の集い」の様子
「硫黄島島民の集い 模型の元山 「うちはどこ?」」
に書きましたが、

模型を作って会場に運んでもらったのと、当時の地図を
頭に思い浮かべて、祖父母の店(うち)の場所を、模型上の
どこになるかを一生懸命に考えました。
模型にはっきりと場所が分かるようになっていた、
島に一つの旅館太平館 との位置関係から、うちのさかなや
の位置を考えました。


今年の硫黄島訪問、元山里帰りグループには、
何と! 昨年の集い以来お会いする「太平館さんご子息」
(疎開時に、10歳をこえていて、当時の記憶がある。)と、
さかなや とは、お向かいさんだった、
「おとーふやさんご子息」(戦前に在住で、記憶がある。)の
お二方が、一緒だったのです。

心強い!どころではありません。
ますます、「二年前は、全然分からない同士の、戦後生まれ。
一人は初硫黄島と、こちらは親戚と一緒に船で来たのは10年以上前 の二人で、
家の位置探しどころじゃなかったな。」と心細かったことを
思い出しました。

( (2) へ続く )

写真は、15年前に伯父たちと言ったときに
「このあたりの森が家だっただろう。」となった辺り、
舗装道路から硫黄ヶ丘へ向かう道と両側の森です。
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2009 硫黄島の隆起について

2009年07月13日 | 硫黄島・小笠原村
擂鉢山の山頂には写真撮影のポイントが多くあります。
碑も多いですし展望も一番の標高島内で最高点です。

海側では、眼下に広がる海、崩れている斜面が海に
落ち込んでいる様子などを見ることができます。
今年で、定年退職で、私たちの訪問の時の解説を
ご担当いただくのが最後となる、
親切で愉快な、私たちの班担当してくれた自衛隊隊員の方とメンバーで、
海側を臨む地点で、記念撮影をしました。


その後、米軍の碑、星条旗を立てた跡、父親たちの星条旗の著者訪問の
石版などがある島全体を臨む方に来て、この写真を撮りました。

その地点から左側を撮ると、前回の記事に掲載の、釜岩・おが丸繋留場所
方面で、右側を撮ると、この写真の、島の東側半分になります。

眼下に、米軍が上陸した鶉石のある海岸で、
左側には、自衛隊施設が写っています。

この場所で同様の角度で、毎年、写真を撮影していますが、今年は、
同じ班でご一緒いただいた小笠原村村議会副議長が、
「あの、縞模様を見てください。隆起の様子が、浜に
刻まれているのが分かりますよ。」と、解説してくださいました。

一昨年も昨年も見て写真撮っているのにいるのに気がつきませんでしたが、
確かに海岸に海岸線と並んで、数本の縞があります。
大木の年輪のようです。

この縞模様から、
戦後の数十年で、数度の、わりと大きな隆起となった地殻変動(火山)活動が
あったことが分かるのだと、初めて知りました。

一昨年の記事などで、「繋留場所、正面の沈船群のコンクリート船が昨年より
また上がって見えるという声があった。」 「上陸海岸の突起している岩が
隆起を示している。」などと、書いてきましたが、
潮の干満もあったでしょうし、ちょっと見た目の、それらの高さが
1年での隆起をしめすというような、戦後の硫黄島の隆起だったというよりは、
これまでに数回、「年輪」を浜に刻むような、上がり方をした、と考える方が
正しそうだな、と思いました。

訪問するたびに、発見がある、硫黄島です。
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2009 北硫黄島

2009年07月13日 | 硫黄島・小笠原村

(この記事は、オリジナルではタイトル「2009 南硫黄島」と、取り違えてしまっていたのを2009年9月17日にタイトルと、本文中の 「南硫黄島」となっていた部分を「北硫黄島」に、訂正変更いたしました。ミスがありましたことお詫び申しあげます。)

今年の硫黄島訪問で撮影してきた写真全部の中で。
写っているものが
一番ぜいたくにそろっている写真は、これだと思います。

擂鉢山の山頂から、いつものように、おが丸繋留している釜岩沖方角を
撮影したものです。

右側には、沈船群が見えます。
釜岩手前に、繋留停泊している、おが丸がいます。

戦前は硫黄島と離れていて、今は隆起で陸続きになっている、
私どもの上陸点、釜岩付近とと硫黄島とをつなぐ浜が左右に広がっています。
釜岩の州のように伸びている突端(写真左側)の後ろに見えるのが、監獄岩です。

監獄岩は、宿泊した祈念館からは正面前方に浮かぶ島、という位置にあります。


そして、きわめつけは、監獄岩のやや右後方(写真の中央よりやや左より)に
おわんを伏せた形で火山島、北硫黄島も海上に写っています。

今年は南北両硫黄が見えて
この擂鉢山からの写真に北硫黄島をおさめることができました。

ただ、この写真、写っているものはいいのですが、
水平線が傾いてしまっています、、、。
写真が下手なのが悔やまれます。気にはしているつもりなのですが、
つい、傾いたりしますので、苦手なのだと思います。


2007年も2008年も今年も、二日とも硫黄島に上陸して
慰霊墓参、里帰り、できました。
さらに、今年は、南硫黄島&北硫黄島を見ることができました。
本当に、恵まれています。

多くの皆様とご支援、ご尽力と、
天候に恵まれて、
それは、多くの方々が、「硫黄島墓参便、天気に恵まれますように」
と祈って下さっているからだと思います。本当にありがとうございます。
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今年も走りました。 (島唐辛子の葉の醤油炒め)

2009年07月12日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島を今年も走りました。

結果から先に。

47分かけて、8.5キロ(およそ)を走りました。

走った場所は、祈念館から、北に向かい、昨年と同じ地点(壁画への曲がる場所より先まで)で折り返し、祈念館前通過して、平和祈念旧島民墓地公園で、折り返し、祈念館へ。ここまでは去年と同じで、
さらにまた、祈念館を通過して、壁画まで行って、壁画前で折り返して
祈念館でゴール。



すれ違った、自衛隊ランナーさんは一人だけでした。
昨年よりは、気温は低かったと思いますが、走った時間は早かったので、
陽射しは高かったです。


今年は、おが丸からの上陸と戻り、やや波が出ていて、天候も崩れる
懸念がありました。
一日目の慰霊祭の時点では、「二日目日程断念で戻るかも。
決定は昼。」ということでした。

その後、祈念館で昼食のお弁当をたべた時点では、

午後の
「それぞれの出身集落への里帰り」は決行、ただし、
15:00時点の決定で、二日目断念で、祈念館宿泊予定で
荷物多めにおろしたメンバーも、おが丸に戻るという選択肢が
検討されている。

でした。


元山集落だった場所付近(硫黄ヶ丘周辺、硫黄島神社)を、
元山出身グループの皆さんと回って戻ったのは、14:30でした。

その時に、4班の班長(誠意があって親身な引率者の鑑のような方)に
「走りに行きたい。勝手に行けないので、慰霊墓参島民引率責任者に
許可してもらえるか確認して欲しい。」と依頼しましたところ、
「15:00時点の二日目あるのか船に戻るのか決定後ただちに
きいてみます。」ということになりました。

15:00には、無事に「二日目日程も決行、宿泊予定者は
そのまま宿泊準備へ。おが丸宿泊者は乗船に向けてのバスに乗る
準備を」と発表されました。

班長が、責任者(お二人とも小笠原村役場職員)に、
掛け合ってくれました。
「時間は90分から、もう少しかかるぐらいで、ここから、
擂鉢山往復が希望です。」と、二人に伝えましたところ、
「この時間から90分は、夕食準備終わって、いろいろ祈念館も
忙しくなる時間にかかってしまう。もっと短い時間で、
30分から40分なら許可します。」ということでした。

理由も明確に、時間も明確に、回答いただけたので、
異存は全くありませんでした。
「去年と同じこの祈念館からあまり離れないコースを、少し長めに」
と決めました。

持っていったハイドレーション内臓ザックも、40分とかでしたら
重いだけで不要と、去年と同じ、アミノバリューBCAA4000 500ml
ペットボトルを持って、

去年は帽子なしでタオルをかぶりましたが、今年は、首を覆う帽子の方では
なく普通の帽子をかぶって出かけました。

さすがに、暑かったです。

走り終わって、ストレッチしている時、身体にこもった熱が、なかなか
出て行かなくて、「これは暑い」と思いました。
ペースは去年より、さらに抑え目で、心拍もそんなに上げずに
慎重に走りました。


その日のお弁当は、祈念館宿泊者は寝る部屋で、
他の島民訪問メンバーは、祈念館食堂で食べましたが、
中学生や父島からの参加の方などがお弁当を食べる場所として
昨年同様に祈念館前にテントを張ってくれていました。


島唐辛子を、昼の弁当を食べた直後や、
14:30から15:00の間とかに、
祈念館隣のいつもの木や、「島唐辛子の木の場所の第一人者の方の
一人(一昨年も、去年も一緒にとらせてくれた人」が、
知っている、少し離れた木とかで、摘んだりしていました。
かなり、たくさんの実を摘みました。

15:00に、二日目決行と、走ってよい許可、時間が決まって、
着替えて、出かけようとすると、
いつものおなじみの中心人物の人たち が、
「なにやら、大きな、枝」を持ってきて、
テント下に、5,6人で陣取りました。

「どうしたんですか?」と訊くと、「唐辛子、枝ごと持ってきた。」と
いう答え!

さすが、硫黄島島民! やることが豪快、大胆、痛快です。

ある島民の方で、
今も戦前の住居跡が分かる方の庭の
島唐辛子の木から、切ってきたそうです。
後から聞いたところによりますと、
木を一本ではなく大きく分かれた幹から上、一つ全体分を
きってきたそうで、ですから、来年には、また、その木は
葉と実をたくさんつける切り方をしてきて、木を丸一本という
のとは違う切り方をしてきたそうです。

うちでプランターで育てている、島唐辛子についても、
前に書きましたが、枝別れしたそれぞれが、どんどん成長するのが
島唐辛子の特長です。


ランニングの、スタートとゴールの間に、2回、祈念館の前を
通りましたが、皆さん、大きな、島唐辛子の枝から摘む作業で
一生懸命でした。テント蔭で作業している前をとおると、
「あの走ってるのうちの一行の一人だよね」という声や、
「おーい!あまり無理するなよ。」などの声援などが聞こえました。
島唐辛子枝処理班の作業は、私が走るより前から始まって、
走り終わってもまだ、やっていました。いずれも方島、超ベテランの
方々が、枝処理にあっていました。

「そんなに、長い時間摘むほどの実の数は、いくら、大きい枝だからって、
ないだろうに。どうして、ずっとやってるのか?」と不思議に思いながら
走って通過するときに見ると、どうやら、実を取っているのではなく
葉をもいでいるらしいのに気がつきました。


祈念館での夕食と、翌日の朝食の食卓に、
「島唐辛子の葉の醤油炒め」が出ました。
5回目の訪問で、いろいろ、硫黄島ならではのものを食べさせてもらってきましたが初めてでした。
ぴり辛ではありませんでした。今まで食べたもののなかで一番近いのは、
高菜炒め(味は違いますが、似た調理法)。
ご飯にも合うし、美味でした。
あんなに暑い中、時間をかけてたっぷり摘んだ葉も、
炒めてしまうと嵩が減ってしまいます。それでも、硫黄島から父島に
戻る船内で、船宿泊組の人も食べられるぐらいの量は作ってくれていました。


写真は、祈念館の前から、走った道を、平和祈念旧島民墓地公園(進むと
先に擂鉢山)方面を撮影したものです。

去年も同じ場所、同じ角度で撮った写真があり、
このブログに載せていますが、大きな違いがあります。

去年の、この角度の写真では、道の先に、釜岩沖停泊の小笠原丸が写っているのですが、今年のにはありません。
今年は、この写真の道の先より、もっと左側に、おが丸はいました。

非常に微妙で難しい操船技術で、海の波の具合(次の日の見込みも含めて)、
潮の具合、もちろん水深、などを考えて、私どもを一番安全に、上陸させられる、ぎりぎりの位置を、繋留位置にしているから、毎年違うんだな、ということが
よく分かる1枚の写真です。
一昨年と去年は、ほぼ同じ位置に繋留だったという記憶があります。

あらためまして、毎年、私たちが訪問できるのは、多くの、
事前に準備してくれている自衛隊、小笠原村の職員、艀を出して操船して下さる父島の漁業関係の皆さんなど関係者、鹿島、小笠原海運の方々
(順不同)、多くの方の、お力があってこそ実現してもらえている
ことに、こころから感謝申しあげます。

また、来年も、もっと走力をつけて、
擂鉢山往復狙います。硫黄島1周駅伝など、夢はどんどん、大きく
膨らみます。


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今年の硫黄島訪問で初めて行った場所(4) 鶉石のある上陸海岸‐2

2009年07月11日 | 硫黄島・小笠原村
今年、降りた、鶉石のある海岸、米軍が上陸した海岸から、
突起岩越しに擂鉢山の写真です。

この写真の、手前側をご覧いただくと、突起岩のこちら側ですが、
砂浜から斜面があって、一段高くなっているのがご覧いただけると思います。
これは、せんごの隆起ですので、戦争当時とは変わっています。

この地点の正面の海側の足元も、同じように、波打ち際までは、
斜度で、20度ぐらい、長さで、2、3メートルの斜面でした。

「今年の訪問に持っていく装備」で、行く前に紹介した、
水深3メートル対応デジカメ。
父島からのパパヤのツアーの兄島海中公園のサンゴと魚をシュノーケリング
(昨年が初体験)で撮影がメイン目的でしたが、
この浜で、海も撮影したい、とチャンスを狙っていました。

特に理由はありませんが、硫黄島で海の中を撮影できる
チャンスがあるとしたら、この上陸海岸だけですし、
当時と海岸線が変わってしまっていて、今の海岸線は戦時の海中ですが、
鶉石のある浜の海の底はどんなになっているのか、
腿ぐらいまでじゃぶじゃぶ海に入って、鶉石取りなどそこそこに、腿ぐらいまでじゃぶじゃぶ海に入って、海中を撮影したいな、とひそかに狙っていました。

いつもの擂鉢山に近い浜なら、入っていけそうだと、
思っていましたが、
今年の場所は、波打ち際からすぐに斜面でした。
波もありました。降りて降りられないことはなかったですが、
波打ち際から、すぐに戻れる平らな浜ではなかったので、
同行の班のメンバーにも、遅れると迷惑をかけるので、やめました。

斜面を降りるのはやめて、斜面になるぎりぎりのところまで
行き、そこで、鶉石を拾いました。

私たちの班の班長の村役場職員の方は、今年が硫黄島初参加の
方でしたが、責任感があって、明るくさわやか、親身で優しい
人でした。
同じバスのもう一人の村役場職員の方は、一昨年、
元山からの参加が、私より若い人と私と、二人だけだった時に、
一緒に、硫黄ヶ丘から天山慰霊碑まで歩いてくださった方でしたので、
本当に、班行動しやすいグループでした。

班長さんと、一緒に隣同士で、一番、海に近い地点で、拾いました。
毎年、拾っていますので、もう、数多くはいりません。
形が良くて大きいのを見つけて拾うことができました。


一昨年、擂鉢山に近い浜で拾った時に、
「何度も行っているベテラン、大先輩の方が、拾うのを
手伝って、私にくれた。」と、このブログ記事に書きましたが、
現在は父島在住の、その方と、
今年の祈念館宿泊の夜にお話をする機会がありました。

昭和19年の小笠原強制疎開の1年前に、硫黄島から北硫黄島へ
引っ越していて、北硫黄島から、本土へ引き揚げた方だそうです。
火山列島三島の中で、硫黄島だけでなく、北硫黄島も、
戦前は住民が生活していた島だった様子を
直接、お聞きすることができました。
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今年の硫黄島訪問で初めて行った場所(3) 鶉石のある上陸海岸‐1

2009年07月10日 | 硫黄島・小笠原村
鶉石
紹介が一年に一度なので、おさらいしておきます。

世界でも硫黄島のこの浜とイタリアのもう1箇所にしかない
火山活動でできた石。白い部分と黒い部分とが混ざっていて、
表面は黒いところに細かく輝いている部分がある石。大きくて、長い辺が
1センチぐらい。
(鶉石の写真は、当ブログの2007年06月26日の記事を参照下さい。) 

鶉石のある浜、
米軍が上陸した海岸には、
これまでの訪問で毎回きていますが、今年行った地点は初めてでした。

例年はもっと、擂鉢山に近い地点に行くのですが、
今年は、かなり擂鉢山から離れた地点でした。

前にも「隆起を示すもの」として、紹介しました、
戦前には海の中だった岩が、にょきにょきはえたような物が
この浜にあります。今では完全に浜の上からはえています。

これまで浜に降りた場所は、その「突起岩」と
擂鉢山の間の地点だったので、前に擂鉢山、後ろに、岩でしたが、
今回は、擂鉢山からその岩よりも離れた地点に降りました
したがって、その岩越しに擂鉢山という位置関係でした。
(次回投稿の記事でその写真紹介します。)

この記事の写真は、
鶉石のある浜、上陸海岸から擂鉢山とは逆の方向、
北東側を撮ったものです。


ブログパーツに張った、
Dream Farmで、お知り合いになれた方から、いただいたコメントを
公開いたしました。
その方のブログ 「今日もきらめいて」のURLです。
http://maho1125.blog75.fc2.com/
(私も、これから詳しく読ませてもらおうと思っているところです。)

また、同じDream Farmで、
大好きなビートルズの解説(曲紹介などなど)
のブログのオーナーさんとも知り合えました。
タイトルと
「やさしいThe Beatles入門」うらはらに、
相当なレベルのビートルズとメンバー、当時の洋楽ファンに
細かいところまで詳細に紹介、しているブログです。
http://beatles.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/big_barn_bed_6e.html
懐かしい曲の解説、満載です!

Dream Farmから、お越しくださった皆様、ありがとうございます。





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今年の硫黄島訪問で初めて行った場所(2) バロン西の碑のある浜

2009年07月09日 | 硫黄島・小笠原村
5回目の訪問で初めて行ったバロン西の碑。

場所は、島の東の海岸にあります。
周回舗装道路から、段丘状の場所を車で降りて、海に近い低い
車が通れる未舗装道路をかなり進んで、碑の場所まで行きました。

「島を離れる時の小笠原丸で一周」でご紹介している様子の
順番で、小笠原丸から島を望む時の位置で表現しますと、
硫黄島の一番北を船が回るときには、擂鉢山が左右のどちらにも
見えない時間が短時間ありますが、その後に、また、擂鉢山が
視界の左側に現れ始めた時点、
そのぐらいの時間に船がいる位置が、バロン西の碑の沖合い
という感じでしょうか。
銀明水という場所の近くです。(度お世話になっております
「硫黄島写真館」ホームページから詳しい地図をご覧いただけます。)

一緒に行ったメンバーで碑の周りで写真を撮ったりしました。


その時に、私は、ふと、気がついたことがあり、驚いて、
近くにいた同行参加(私が三年連続参加のいずれの回も、
バスにも一緒でお世話になっている)小笠原村議会副議長に、
「この場所は不思議な場所ですね。」と、何に驚いているのかを
口に出したところ、副議長が、「気がつきましたか。それも、
皆さんを、この場所にお連れした理由の一つです。」とおっしゃいました。

この東海岸で、バロン西の碑を見た時に、
私たちから、実に幸運なことに、北硫黄島と南硫黄島の
両方が見えていたのです!
海を正面に左を見れば南硫黄、右側には北硫黄が見えました。

両方を同時に見れる地点は、硫黄島でも、バロン西の碑のあたり
しかありませんし、あの場所からでも、同時に両方が見れるかは、
天気、雲、もやの状況にもよるので、本当に幸運だったと思います。
感動しました。


昨年の6月訪問から戻っての、このブログの記事での
南硫黄島の紹介に、「運良く、好天に恵まれたので南硫黄まで
見ることができました。」という内容で紹介しましたが、
これまで、北硫黄まで見えたのは、私が訪問した中では
初めてでした。

船に宿泊したメンバーたちが、二日目の行程開始で合流の時に、
「今日は北硫黄も見える。」と言っているのを聞きました。

南硫黄島は火山のみ、おわんをひっくり返した形です。
一方の、北硫黄は、山がギザギザに二つ、
戦争激化で強制疎開まで、90人の人が住んでいた島です。

バロン西の碑は、ほぼ一直線にならぶ火山列島の硫黄島の
南北の両方が見える海岸、海に近い場所に、ひっそりとあります。

バロン西も、最期の場所には諸説があるようですが、この東の海岸には
いて、晴れた日には、「両方とも見える地点だ」と、気がついていたのでは
ないだろうか、と思いながら、海を見ました。

写真の中央よりやや右よりに突起した岩がありますが、その突起のところから左側に向かって海上にうっすらと見えるのが北硫黄島です。


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今年の硫黄島訪問で初めて行った場所(1) バロン西の碑

2009年07月08日 | 硫黄島・小笠原村
バロン西については、もう、いまさら紹介するまでもない、
硫黄島で玉砕した軍人の中でも一番よく知られた人です。

今さら、バロン西について語られる必要がないというぐらいだと
思います。

この碑を訪問した時にも、私たちの間での会話も、
「映画で、演じた役者は誰でしたっけ?」というぐらいで、
「西大佐はどういう人物だったのか。」「投降勧告をどう思ったか」
などという話は、出ませんでした。

インターネットで検索した結果でも、
「これまでに、既に、いろいろ言われすぎている。」という
意見が目立つというぐらいの有名な人です。

中に、「投降勧告は西大佐にだけされたものではない。」という
視点の記述がありましたが、私も、その点はポイントだと思います。
(このブログでは戦争に関しては、できるだけ、個人的意見は書かない
方針ですが。)

一人だけ西大佐が、突出して有名なので、「バロン西への投降勧告」
という話が、とても多くなってしまいますが、
アメリカは、最短期間で最少犠牲者数で、硫黄島を取りたかった
はずですから、それまでの戦闘での経験で、いろいろ知っていた
でしょうが、 どんどん投降してきてくるのが、
米軍にとって、一番楽だったはずですから、壕に入っている兵士には
ひとしく投降勧告をした(もしくはしたかった)と思います。

辛いな、と思うのは、司令官の栗林忠道も、
将校の西竹一も、米国のことをよく知っていたはずで、
(栗林は駐米経験があり、西が金メダルを取ったのはロスアンゼルス五輪)
投降した捕虜をどうアメリカが扱うかを知っていただろうという点です。

この碑の碑文が、
「硫黄島  散りて散らさぬ  もののふの  心の櫻 咲にほう島」
であると紹介してくれているホームページ/ブログは
ほとんどなく、ある方のブログに紹介していただいているのを
参照させていただき、確認させてもらいました。
(もっと大きく碑文が写っている写真は、
「硫黄島写真館」に紹介されていて見ることができます。)

碑の真ん中には、ある写真は、
「バロン西は美男だったんだ。」という感想が多く出そうですが、
私は、「ウラヌスは何て背が高いんだ!」と思いました。

栗林やバロン西だけではなく、硫黄島戦を戦った多くの犠牲者の
それぞれに、いろいろな話があり、
一緒に硫黄島訪問に参加している人から、多くの話を
教えてもらいました。
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