ワールドカップサツカーが国民を熱狂させ、国中に一体感を醸しださせるパワーを持つことを、4年に一度ではありますが、今回も、まざまざと見せてくれた日本代表。
特に今大会の日本代表は、世界に「日本という存在」「日本という国の国民性」「日本人の思考と行動」を強く発信したのではないでしょうか。
初戦のコロンビア戦に勝利したあたりまでは、まだ世界の耳目を集めるほどではなかったのですが、第3戦のポーランド戦に見せた「リスク覚悟の最後の10分+アディショナルタイムの戦術」、そしてラウンド16のベルギー戦で見せた「2-0のリードからの悪夢の逆転負け」は、強烈なインパクトを世界中に残したと思います。
過去のワールドカップでは、日本代表は、基本的には、世界の中でまだまだ弱い国が見せる共通の戦い方をしてきたと思います。決勝トーナメントに勝ち上がるためには、目の前の試合に全神経を集中して、基本的に守りを固めて少ないチャンスをモノにして試合を終わらせる、そんな感じの戦い方です。
しかし、今大会、日本代表は、少なくともガチガチに守りを重視して少ないチャンスをモノにするという弱小国共通の戦い方を、初めてやめました。
その結果、はじめてサッカーを通じて「「日本」という国はそういう国なんだ」「ポーランド相手にああいう試合をした日本が、こういう試合ができるんだ」ということを世界に発信することができたのです。
ポーランド戦で見せた試合の終わらせ方などは、まさに世界が初めて知った日本の国民性だと思います。会場のブーイングを浴びることはわかっていても、器用には立ち回れない。やることが実直なのです。
まさにマリーシアとは真逆の試合運びです。特に日本が順位争いの対象となったセネガルとの差が、フェアプレーポイントという皮肉なポイントだったことから、あの、あからさまな時間稼ぎが「フェアプレーと言えるのか」という批判につながりました。
日本には「正直者がバカを見る」という諺があるとおり、まさに正直にプレーしたことで「バカ者」扱いされたのです。
ベルギー戦では、優勝候補の一角ベルギーに2点リードの局面を作り、あわやという思いを世界中に抱かせました。結果は残酷な逆転負けでしたが、堂々と渡り合っての玉砕という感じで世界を驚かせたと思います。
ここにも日本的な正直さが出ています。アディショナルタイムの戦い方は「いいところまでは行くけれど勝てない」という、これまでの日本の弱さが、そのまま出た感じですが、堂々と打ち合ったという意味では、これまでの日本が示したことがない、全く新しい姿だったと思います。
世界に「日本という存在」「日本という国の国民性」「日本人の思考と行動」を強く発信したのは、ピッチ内だけではありませんでした。
今大会、ピッチ外の2つのエピソードが世界に強く日本というものを印象づけました。一つは日本代表がベルギー戦で使用したスタジアムの控室(ロッカールーム)の写真と、添えられたメッセージ。
「日本はClass(品格)がある」「素晴らしいマナーだ。いつか日本に行ってみたい」などの反響を呼ぶ投稿でした。試合に敗れてなお保つ、この「Integrity(気高さ)」、まさに日本という国の国民性を余すところなく世界中に発信しました。
サッカーというスポーツが世界に大きな影響力を持つがゆえに、日本代表チームのこの行為を誇りに思うのです。
この投稿には後日談があって、今日のネットで「この投稿の主、すなわち大会スタッフだった女性は、守秘義務違反により解雇されてしまった」そうです。
FIFAにもロシア組織委員会にも「大岡裁き」という日本的なやり方は通じないのでしょうか。JFAの心ある人ならば、この女性がそういう咎めを受けるかもしれないということを感じていたかも知れません。
そう感ずるのが「感受性」というものでしょう。その時に「大岡裁き」という解決方法を思い出した欲しかったのです。日本人ならばわかるでしょう。
「普通に処理すれば守秘義務違反なのだけど、彼女の思いを無にしない方策はないか、考えて欲しい」そうFIFAなりロシア組織委員会なりに掛け合ってくれればと、惜しまれる話です。
日本人の品格、気高さは、スタジアムのゴミをきれいに拾い集めて帰るサポーターの態度でも、世界中の称賛を浴びています。
私たち日本人は、そういうマナーや配慮を大切にする国民です。昨今は、都内を歩いていて、すれ違う人が平気でゴミのポイ捨てをする場面に出くわし、暗澹たる気持ちにさせられますが、それは、ほんの一握りと思い直すようにしています。
日本中の町や村で、子供の頃からマナーや思いやりの心を教え続ける気風は失われていないのだと思います。私はそれを思うと、つくづく日本という国は誇らしい国だと思いますし、日本人というのは、素晴らしい国民性を持った国民だと思います。
そのような日本文化のことを、アメリカでのスポーツ取材歴が長いジャーナリストの高柳昌弥さんという人が「何も残さず何かを残す日本の文化、サッカーのW杯で感じた無形の財産」という記事を書いていて、ネットの「スポニチアネックス」で紹介されています。
「何も残さず何かを残す」というフレーズが印象的です。彼が海外での経験から日本人の行動が際立っていることを書いている部分があります。それは1980年代にアメリカツァーに参戦していた女子プロゴルファーとの、ちょっとした「やりとり」のことです。
高柳さんがそのゴルファーから「コピー5枚とって欲しい」と頼まれて、とったコピーと原紙をクリアファイルに入れて渡した時「どうしてこんなに早く、しかも親切にしてくれたのか」と聞かれたそうです。
彼にとっては、ごく普通のことだったのに、彼女にとっては不思議な体験だったらしいというのです。つまり競争社会に身を置くと、周りが全て敵に見えてしまうほど、異なる文化の中で生活している過酷さを味わっていたらしく、彼女の目が大げさではなくちょっと潤んでいたというのです。
日本人にとっては、当たり前のような何気ないことでも海外では「あり得ない、どうして、そこまでできるかわからない」というほどの違いがあるということの例です。
高柳さんは自分のレポートをこう締めくくっています。楽しみな話です。
「ベルギーに勝てなかった日本代表。でも、いつかサポーターが優勝時に舞う紙吹雪をひとつ残らず片付ける日々が来ることだろう。そのときまで、日本の“色”は失ってはいけない。違っているからこそ尊いものが、世の中にはまだたくさん残っている。」
「バカ正直」なことしかできず、かえってバカにされる。それでいいじゃないか、という気持ちです。それを恐れて、大切なものを失っては元も子もないということのようです。
それにしても、感慨深いものがあります。1997年のジョホールバルで、初めて世界の舞台へのキップを手にしたサッカー日本代表。その後の活躍とサポーターを含めた日本人としての「ふるまい」が、これほどまでに世界に影響を与えることになろうとは、思いもよらなかったことです。
20年の歳月は、日本人の礼儀正しさ、品格といった国民性が、サッカーを通じて世界に影響を及ぼすことが可能なことを示してくれたのです。
「サッカーというスポーツは、その国の国民性を、実によく映し出す」とは、よく言ったものです。
このテーマはこのへんで。
特に今大会の日本代表は、世界に「日本という存在」「日本という国の国民性」「日本人の思考と行動」を強く発信したのではないでしょうか。
初戦のコロンビア戦に勝利したあたりまでは、まだ世界の耳目を集めるほどではなかったのですが、第3戦のポーランド戦に見せた「リスク覚悟の最後の10分+アディショナルタイムの戦術」、そしてラウンド16のベルギー戦で見せた「2-0のリードからの悪夢の逆転負け」は、強烈なインパクトを世界中に残したと思います。
過去のワールドカップでは、日本代表は、基本的には、世界の中でまだまだ弱い国が見せる共通の戦い方をしてきたと思います。決勝トーナメントに勝ち上がるためには、目の前の試合に全神経を集中して、基本的に守りを固めて少ないチャンスをモノにして試合を終わらせる、そんな感じの戦い方です。
しかし、今大会、日本代表は、少なくともガチガチに守りを重視して少ないチャンスをモノにするという弱小国共通の戦い方を、初めてやめました。
その結果、はじめてサッカーを通じて「「日本」という国はそういう国なんだ」「ポーランド相手にああいう試合をした日本が、こういう試合ができるんだ」ということを世界に発信することができたのです。
ポーランド戦で見せた試合の終わらせ方などは、まさに世界が初めて知った日本の国民性だと思います。会場のブーイングを浴びることはわかっていても、器用には立ち回れない。やることが実直なのです。
まさにマリーシアとは真逆の試合運びです。特に日本が順位争いの対象となったセネガルとの差が、フェアプレーポイントという皮肉なポイントだったことから、あの、あからさまな時間稼ぎが「フェアプレーと言えるのか」という批判につながりました。
日本には「正直者がバカを見る」という諺があるとおり、まさに正直にプレーしたことで「バカ者」扱いされたのです。
ベルギー戦では、優勝候補の一角ベルギーに2点リードの局面を作り、あわやという思いを世界中に抱かせました。結果は残酷な逆転負けでしたが、堂々と渡り合っての玉砕という感じで世界を驚かせたと思います。
ここにも日本的な正直さが出ています。アディショナルタイムの戦い方は「いいところまでは行くけれど勝てない」という、これまでの日本の弱さが、そのまま出た感じですが、堂々と打ち合ったという意味では、これまでの日本が示したことがない、全く新しい姿だったと思います。
世界に「日本という存在」「日本という国の国民性」「日本人の思考と行動」を強く発信したのは、ピッチ内だけではありませんでした。
今大会、ピッチ外の2つのエピソードが世界に強く日本というものを印象づけました。一つは日本代表がベルギー戦で使用したスタジアムの控室(ロッカールーム)の写真と、添えられたメッセージ。
「日本はClass(品格)がある」「素晴らしいマナーだ。いつか日本に行ってみたい」などの反響を呼ぶ投稿でした。試合に敗れてなお保つ、この「Integrity(気高さ)」、まさに日本という国の国民性を余すところなく世界中に発信しました。
サッカーというスポーツが世界に大きな影響力を持つがゆえに、日本代表チームのこの行為を誇りに思うのです。
この投稿には後日談があって、今日のネットで「この投稿の主、すなわち大会スタッフだった女性は、守秘義務違反により解雇されてしまった」そうです。
FIFAにもロシア組織委員会にも「大岡裁き」という日本的なやり方は通じないのでしょうか。JFAの心ある人ならば、この女性がそういう咎めを受けるかもしれないということを感じていたかも知れません。
そう感ずるのが「感受性」というものでしょう。その時に「大岡裁き」という解決方法を思い出した欲しかったのです。日本人ならばわかるでしょう。
「普通に処理すれば守秘義務違反なのだけど、彼女の思いを無にしない方策はないか、考えて欲しい」そうFIFAなりロシア組織委員会なりに掛け合ってくれればと、惜しまれる話です。
日本人の品格、気高さは、スタジアムのゴミをきれいに拾い集めて帰るサポーターの態度でも、世界中の称賛を浴びています。
私たち日本人は、そういうマナーや配慮を大切にする国民です。昨今は、都内を歩いていて、すれ違う人が平気でゴミのポイ捨てをする場面に出くわし、暗澹たる気持ちにさせられますが、それは、ほんの一握りと思い直すようにしています。
日本中の町や村で、子供の頃からマナーや思いやりの心を教え続ける気風は失われていないのだと思います。私はそれを思うと、つくづく日本という国は誇らしい国だと思いますし、日本人というのは、素晴らしい国民性を持った国民だと思います。
そのような日本文化のことを、アメリカでのスポーツ取材歴が長いジャーナリストの高柳昌弥さんという人が「何も残さず何かを残す日本の文化、サッカーのW杯で感じた無形の財産」という記事を書いていて、ネットの「スポニチアネックス」で紹介されています。
「何も残さず何かを残す」というフレーズが印象的です。彼が海外での経験から日本人の行動が際立っていることを書いている部分があります。それは1980年代にアメリカツァーに参戦していた女子プロゴルファーとの、ちょっとした「やりとり」のことです。
高柳さんがそのゴルファーから「コピー5枚とって欲しい」と頼まれて、とったコピーと原紙をクリアファイルに入れて渡した時「どうしてこんなに早く、しかも親切にしてくれたのか」と聞かれたそうです。
彼にとっては、ごく普通のことだったのに、彼女にとっては不思議な体験だったらしいというのです。つまり競争社会に身を置くと、周りが全て敵に見えてしまうほど、異なる文化の中で生活している過酷さを味わっていたらしく、彼女の目が大げさではなくちょっと潤んでいたというのです。
日本人にとっては、当たり前のような何気ないことでも海外では「あり得ない、どうして、そこまでできるかわからない」というほどの違いがあるということの例です。
高柳さんは自分のレポートをこう締めくくっています。楽しみな話です。
「ベルギーに勝てなかった日本代表。でも、いつかサポーターが優勝時に舞う紙吹雪をひとつ残らず片付ける日々が来ることだろう。そのときまで、日本の“色”は失ってはいけない。違っているからこそ尊いものが、世の中にはまだたくさん残っている。」
「バカ正直」なことしかできず、かえってバカにされる。それでいいじゃないか、という気持ちです。それを恐れて、大切なものを失っては元も子もないということのようです。
それにしても、感慨深いものがあります。1997年のジョホールバルで、初めて世界の舞台へのキップを手にしたサッカー日本代表。その後の活躍とサポーターを含めた日本人としての「ふるまい」が、これほどまでに世界に影響を与えることになろうとは、思いもよらなかったことです。
20年の歳月は、日本人の礼儀正しさ、品格といった国民性が、サッカーを通じて世界に影響を及ぼすことが可能なことを示してくれたのです。
「サッカーというスポーツは、その国の国民性を、実によく映し出す」とは、よく言ったものです。
このテーマはこのへんで。
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