城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

トイレ事情今昔 22.5.29

2022-05-29 17:24:41 | 面白い本はないか
 今日の話は、ずばりウンコにまつわるものだ。「ウンコ」と聞いただけで、ブログを読むのを止めないで欲しい。元ネタは、湯澤規子著「ウンコはどこから来て、どこへ行くのかー人糞地理学ことはじめ」(ちくま新書)。誰でも人文地理学なら聞いたことあるけれど、人糞地理学なんて聞いたことないこと請け合いだ。ウンコとは幼児語でウンチとも言う。食料を口から食べた残り滓がお尻からウンコ(大便というと余計に汚くなる気がする。)として排出される。そしてウンコやオシッコは、今は処理場や浄化槽で処理され、川や海に流される。しかし、昔といってもつい最近までポットン式の汲取り用のトイレだったはずだ(もちろん都市ではかなり早く水洗便所が普及していた。大学生の時、自宅はポットン式、下宿先は水洗便所(和式)だった。この時代までは自分の身体から出たウンコを眺めることができたが、今や眺めることが出来るのは人間ドックの時の検便時だけとなった。

 うんこドリルに人気がある 子どもにとってウンコは案外人気がある

 子どもの頃母親の実家によく遊びに行った。いとこたちとの遊びは楽しかったが、実家のトイレは子どもには怖かった。小屋の一角にあったトイレは暗く、板の間に穴と◯隠しがあっただけだった。暗くて自分のウンコを見るはできなかった。もちろん尻は灰色のちり紙だった。自宅に浄化槽が設置され、水洗となったのはいつ頃か記憶がないが、20年前くらいに増改築した時に町役場の指導(もうこの頃は単独槽は認められていなかった)により合併槽を補助金をいもらって設置した。この際、公共下水処理場ができたら、そちらに繋ぎますという念書を入れた。そして、最近その下水処理場が完成し、家の前に下水管が通った。しかし、なぜか繋ぐことは求められなかった。現在の合併槽を壊れるまで使って良いということだった。

 山登りを趣味とするおじさんには、山のトイレ事情も大きく変わったところとやむを得ない事情により相変わらず変わらないところがある。変わらないところは、大部分の山小屋は処理後地中浸透か沢等に放出していること。一部ヘリで空輸している山小屋もある。ただし、かつては処理せずに放出していたが、現在はバイオとかで科学的方法で処理したあとで放出している。3年前に南アルプス北沢峠近くの仙水小屋で見たトイレは下に流水が勢いよく流れているものだった!

 昨年11月に泊ったえん燕山荘のトイレ 臭いが全くしない快適なトイレだ

 富士山に設置された新しいタイプのトイレ 屎と尿を分けるのだそうだ
 かつて富士山は登山客がいなくなった頃合いを見計らって屎尿を周辺にぶちまけていた。後に白い紙の残骸が残り、これが問題となった。
 お尻を拭いた紙を便槽に入れないようにしている山小屋が多い。集めた紙は焼却、屎尿は沢等に放出するからなのか?

 やっと本の紹介にたどり着いた。日本で人間の糞尿が肥料に用いられたのは、二毛作(米を作った後に麦等を作る)が普及した鎌倉時代。百姓たちにとって、購入しなければならない肥料を金肥(魚肥、油かす)と言い、安価あるいは自給できる肥料として下肥(しもごえ)があった。江戸時代は究極のリサイクル社会だと言われているが、18世紀中頃江戸の人口は100万人で、一年間に総額2万両(今のお金で8~12億円)の下肥が取引されていた。もちろん、お金を払っていたのは百姓でその下肥を作物の肥料として使用していた。幕末に日本は訪れた西欧人はこの臭いと光景にびっくりしたそうである。西欧では家畜の糞尿を肥料とし、人間のそれを資源とする発想がない(一部イギリスなどで使われたと書いているが。もちろんアジアには多くの使用例がある。)。

 下肥の歴史は戦後もなお続いたが、大都市に人間が集中し、そこから発生する屎尿はリサイクルすることができなくなった。処理方法が完成する前にはかなりの量が海洋投棄されていた。おじさんの記憶ではリヤカーを使って屎尿の汲取り、運搬が行われていた。この際出る臭いは相当なものであった。おじさんの父親も自宅のトイレの汲取りを行っていた。汲み取った屎尿は、田んぼや畑の一角にある大きな坪等に入れられ、そこで発酵するのを待って、肥料とされたのである。このためか、小学校時代には寄生虫の駆除のため薬を飲まなければならなかった。そのうち、バキュームカーなるものが登場(1950年に川崎市で初登場)、著者はこれがあったからこそ都市への人口集中、そして高度成長が可能になったと書いている。また、東京オリンピック(1964年)に向けて下水道の普及が進んだ。

 お尻を拭くということもかつてはその場所で利用できる物が使われた。日本では蕗の葉なんかは最高で藁とか色々なものが使われた。江戸時代には浅草紙という再生紙(紙くずを集める人がいた。ごわごわで灰色の紙だそうだ。)が使われた。木べらというのもあった。砂漠地帯では砂だそうだ。左手で砂を使う(想像するのが大変難しい)。それが段々とロール式のペーパー(アメリカでは1930年代から普及、日本では明治30年に輸入されたという。日本のメーカーが作り出すのは戦後)が主流となった。これに関連して米原万里著「パンツの面目ふんどしの沽券」という抱腹絶倒なエッセイがある。戦争に負け、シベリヤ送りとなった日本軍の兵士たちにとって、乏しい食料等とならぶ困りごとにトイレにお尻を拭く紙が置いていないという話が出てくる。著者が調べたところ、ソ連軍の兵士たちはお尻を拭かないという事実だった。だから、その必要性など理解できなかったということだった。

 ウォシュレットのキャッチコピー「お尻だって洗って欲しい」が出たのは1981年、今やかなりの家庭が椅子式の水洗であろう。このため、子どもたちはポットン式のトイレなどあろうものなら排出もできないと聞く。しかし、我が町にはいまだバキュームカーが厳然と存在し、控えめであるが周辺に「いなかの香水」を漂わせてくれるのである。

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タマネギの話 22.5.26

2022-05-26 13:08:38 | 野菜作り
 ここのところタマネギの高騰ぶりが伝えられている。最大の産地である北海道(”タマネギ御殿”があるとか聞くが、見たことはない)が天候不順で不作だということ、中国からの輸入がコロナの影響で激減していることが理由だそうだ。値段が2倍、3倍となっているらしい。言うまでもなく、タマネギは様々な料理の食材となる。食料自給率が40%しかない日本では、海外から輸入する食料が円安の影響もあって、値上がり続けている。賃金の上がらない中で食料費の値上げは家計を直撃している。

 幸い我が家はタマネギは自給自足できている。しかし、3月頃となると見かけは大丈夫でも中味が傷んでいるタマネギが続出するということになる。タマネギの植え付けはこのあたりだと11月初め頃が普通である。品種は大きく分けて、3、4種類ある。早生(わせ)、中生(なかて)、晩生(おくて)、中生と晩生の中間の中晩生がある。早生は早く収穫できるが、その分秋頃までしか保存できない。一方で晩生は、翌年の3月頃まで保存できる。さらに早生は晩生に比べて柔らかい。この辺では今が新玉が出回る(収穫)時期だが、サラダなど生で食べるなら、柔らかい早生が良いということになる。

 我が家では、11月初めに中晩生200本、早生(赤玉)20本を植え付けた。このくらいが家族2人で食べきれる量だと思う。時々600本植えるという人がいるが、家族が余程多いか、親戚や友達に差し上げる(「野菜外交」と勝手に読んでいる)のかなと推測する。3月に追肥を行ったが、マルチをかけてあるところはそのマルチをはがし、肥料を施し、再びかけるので結構手間がかかる。それ以外は作るのに大した手間はかからない。

 それでは我が家のタマネギの出来はどうだったのか。やはり低温の日が長く続いたせいかもしれないが、小さな玉のものが非常に多かった。一部マルチをかけずに植付けた所は、その傾向が特に激しかった。

 収穫のサインは株が倒れた状態になること

 早生の赤玉 サラダに最適でスライスし、カツオ節、酢などで食べる
 60cmのビニール紐で4個を結びつけ、もう一組の4個と結ぶ(合計8個)

 結びつけれない程小さいタマネギ 網の袋に入れてこれも棹にぶら下げた

 家の車庫の天井にぶら下げた洗濯棹に先ほどの8個を架ける 小さなタマネギが多い
 この状態でほぼ来年の3月まで保存できる

 最後に家内の一言 「これくらい(小さい)だと何とか食べきれるね!」

 次の収穫物はジャガイモ、ブロッコリー?
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夏野菜の今 22.5.22

2022-05-22 18:58:02 | 野菜作り
 まずは今朝花壇の花。バラの下に植付けられていて、そこから這い出してきた。

 かなり昔植付けた花 カンパニョラ・アルペンブルー 

 横山岳、八丈岩に登って以来、左膝の調子が悪く、一週間ぶりに城台山に昨日と今朝登った。登りはまだいいのだが、下りがつらい。おまけに変な歩き方になっているので、悪くない足まで痛くなってくる。4月は右足親指付近の炎症、5月は左足親指の炎症そして膝の不調と続いている。

 それでも午後はいつものように畑に出かけた。そしてキュウリを初収穫してきた。そのことはこの後に書くので、少し別の話を書いてみたい。畑から帰り、揖斐川図書館から借りた栗原俊雄「東京大空襲の戦後史」を読み始め、三分の一ほど読んだ。東京大空襲は3月10日の未明300機以上のB29が隅田川沿岸など東京東部の住宅街に焼夷弾をばらまき、10万人に及ぶ死者が出た。この被害の補償を求めて、闘っている被災者(戦争から77年経っているのでかなりの高齢である)がいる。そのための法律を作ってもらうよう政府に訴えているのだが、政府は無視している(政府は空襲の被害は東京だけではないので、これを認めると全国に広がることを怖れているのか。しかし、コロナ給付金を出すよりは、余程政府の政策として正しいとおじさんは思うのだが。)。被災者は裁判にも訴えたが、「受任限度を超えていない」とかの理由(間違っているかもしれない)で認めなかった。

 アメリカ空軍のルメイ将軍はこの大空襲を指揮した軍人だが、なんと日本政府は彼に「勲一等旭日大綬章」を贈っている。その理由は、航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力したということだった。アメリカ軍は実は日本の家屋が火に弱いことを実験までして、焼夷弾なるものを発明したのだった。しかも、今のロシアではないが、国際法に違反することまで承知で行ったのだ。ルメイがやらなくても他の軍人が同じようなことを行ったかもしれない。しかし、それでも閣僚級の人に与える勲章を与えるとはどこまで日本はアメリカにへりくだるのかと思ってしまう。

 やっとここから野菜の話になる。4月28日に夏野菜の植え付けをしたから一ヶ月弱ということになる。

 ナス、甘トウガラシ、ピーマン、キュウリ 5月20日に第一回目の追肥を行った

 キュウリ本日の収穫

 トマト

 ミニトマト トマトは脇芽が一杯出てくるので全てつまみとる 脇芽が見えている

 スイカ

 スイカ 親つるを摘芯し、子つる4本を伸す 孫つるは切除

 左ニンジン 右ブロッコリー ニンジンは間引きをし、葉はおひたし、天ぷらで食べた

 枝豆 4月15日ポットで種まきし、5月14日に植付けた もう少し大きくなったら5節目で摘芯する(こうすると実が多くつく)

 タマネギ 今週中に収穫する予定

 ジャガイモ 花が一杯咲いている 
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花壇の花・22春(最終回) 22.5.20

2022-05-20 19:50:13 | バラ、クレマチス等
 ほとんどのバラが咲きそろい、一番花は随分剪定した。 二番花のつぼみが上がってきており、しばらくすると楽しめるようになる。新芽にはアブラムシが一杯付いているのを発見したので、早速消毒を行った。これから雨の季節になると黒点病が発生し、葉が次々と落ちる。もちろん、被害を少なくするために消毒(防菌)をするのだが、防ぎきれない。梅雨と酷暑、バラにとっては厳しい季節が近づいている。

 今日は最終回ということで、今回購入したマクロレンズ50mmで、かつAFで撮影してみた。意外とピントは合っている。これまでマクロ100mm(aps実質160mm)で撮っていたから、花にかなり近づくことになる。


 フレンチローズ三種

 ギーサヴォア(フレンチ)

 ラヴァンデ・パルフェメ(フレンチ)

 レディ・オブ・シャーロット(イングリッシュ)

 グラハムトーマス(イングリッシュ)

 クロッカスローズ(イングリッシュ)

 ジュビリー・セレブレーション(イングリッシュ)

その他

 パーマネントウェーブ

 アンジェラ

 タッチオブクラス

 ピェールドゥロンサール

 同上

以上で春の巻は終わりです。ご覧いただきありがとうございました。
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様々な慣習(葬式) 22.5.19

2022-05-19 11:10:47 | 面白い本はないか
 岐阜県図書館に5月6日に行ったとき、エッセイの棚でとても面白い本と出会った。もちろんその時中味は読んでいないので、その面白さはわからなくて、本のタイトルと表紙のマンガに惹かれただけだが。その本とは、上野誠著「万葉学者、墓をしまい母を送る」。何が面白いと思ったのかというと、おじさんが経験してきた葬式と比較することができたからだ。そして、これから経験することになる肉親の送り(もちろんおじさんが先に「行く」こともあり得るが)を考えるからだ。


 少し、脱線すると、ラジオ英語会話で火曜日「We all have to go sometime」という慣用句があることを学んだ。これは「みんないつかは亡くなります」という意味で、「go」は自分のいるところから離れていくときの表現である。日本語では丁寧表現として「逝く」というのがある。両者ともいなくなるということだろう。

 おじさんはかねて、冠婚葬祭はその地域の伝統や慣習によって大きく違っているのを感じていた。妹の嫁ぎ先の葬儀に出たとき、式場の前面に飾られていたのは造花の花輪(かつてパチンコ屋の開店時によく見た)だった。おじさんの地元では生花が用いられていた。これは小さな違いに過ぎないのだが、紹介した本を読むと共通点と大きく違う点の双方がある。ここから本の内容に立ち入りながら紹介する。著者(1960年生まれ)は福岡県甘木市(現在朝倉市甘木、私の山ともEさんの出身地)の出身で、13歳のときに祖父の葬儀に立ち会っている。個人病院に入院していた祖父は、最期は病院から追い出され(当時はこれが普通。家族が家での看取りを強く求めていたのかもしれない。)、自宅に帰ってきた。著者は祖父が亡くなる4週間ばかりを両親(福岡市在住)とともに過ごすことになった。祖父が亡くなると、医師が死亡を確認し、その後親類や隣家の男衆が次々とやってくる。そして、夕方になると今度は女衆が集まってきて、買物をし、集まった者たちの食事を作る。この時女衆は白い割烹着を着てくることがならわしなのだが、そのことを知らない若い住民がエプロンで来て、ひんしゅくをかったと書かれている。その住民は新しく割烹着を買い求めかければならなかった。女衆の中で采配をふるうのは年長者か慣習に詳しい者ということになる(近所の集まりではこのような人が出てくるし、また必要である。しかし、時に厄介な存在であることは言うまでもない。)

 男衆はというと、葬儀の予算、香典の額等をめぐり、話し合いを延々と続けるのである。その家の家格(こんなものは勝手に作っているだけなのだが、親類や近所などと比べて決める)に応じた葬儀が良いとされているからである。延々と続く話し合いを著者は、「寄り合いの民主主義」と言っているが、これは民俗学者の宮本常一が描く話し合いそのものである(九州のある地域で宮本が地域の古文書を借りたいと申し入れたことに対して、地域住民の話し合いが何日にもわたり行われた)。長くなる理由は、勝者も敗者も作らない、皆がしぶしぶ同意したという形を必ずとらなければならない、こうすれば失敗しても誰も責任をとらずに済むからである。また、焼香の順も極めて神経を使うところである。自分の方が先だと思っている人にとって、後になるということはとても腹立たしく、親戚の集まりの機会などに蒸し返される(「取り込んでいて」という言い訳は通用しない。)。

 この本のハイライトは「湯灌」の場面である。この地域では湯灌は女たちの仕事で妻と娘が行う。著者は男だがまだ13歳であったためにこの湯灌を手伝うことになったのである。この少年が祖母と母親(実の娘)の助けで祖父を背負い、風呂まで往復した。さらに祖父の着ていた寝間着を水洗いし、バケツに入れ、水を注ぎ込む。それは四十九日の法事が済むまでそのままの状態にされる。その理由はあの世に行くとき熱い熱い火焰地獄を通るからだそうだ。そして、男衆がなぜ湯灌をしないのかの理由が実に興味深い。男は怖がるから(女だって怖い)というのは嘘で、女たちはまるで赤ん坊をあやすかのように、祖父に声をかけていた、女たち特に妻にとって愛する人の身体を愛おしむ最期の時間であり、そういう愛の行為を他の男に見られたくないと心の奥で思っていたのではないかとと推測している。

 ここでおじさんの経験を話す。おじさんの地域(?)では甥っ子(男)が行うことになっていた。おじさんの父親は自宅で看取ったので、家族以外の男たち(甥っ子プラスアルファ)が湯灌(風呂には行ってない)をした。その際、彼らは浴衣に着替え、お湯をガーゼに浸して、身体を拭いた。その後、浴衣を脱ぎ、お風呂に入った。その浴衣は故人が使っていた布団なんかと同様に焼却された。伯父、叔父さんのときには形だけガーゼで拭いた。会うといつも亡くなったたら甥である私に湯灌をしてもらうと言っていた叔母さんだったが、時の流れか死去ぶれもなく旅立った(後日亡くなったという連絡があり、お参りはした。)この時我が町には財産区所有の火葬場しかなく、それを行うのは近所の人という体制だったので、大垣市の火葬場へ運んだ。

 本に戻ると、著者の祖父は商売で成功し、1930年に二階建ての墓を作った。一階が5、6人が入れるような納骨堂、二階へは階段をあがり、そこに墓標が建てられていた。著者はいつもうちの墓はどうしてこんなに大きいのかと思っていたそうである。それに対する祖母の答えがまた面白い。昔は家と家との縁組みをしたり、嫁をとったり、養子をとったりするときには、相手の家の墓を見に行ったもんばいと。この墓も著者により、福岡市内の墓の団地に移された。

 いいかげん話が長くなっているのでそろそろ終わらなければいけない。著者は、著者の兄がなくなったので、福岡にいた母親を引き取ることになった。いやがる母親を奈良市まで連れてきたのだが、誤嚥性肺炎やら大腿骨骨折などで入退院、転院を繰り返した。母親が亡くなって、再び湯灌の話が出てくる。最初は著者自身で行うことも考えていたのだが、かつての記憶が蘇り、結局葬儀社に任せることになった。ゴム手袋をしたプロのチームによる湯灌(部屋に湯船をつくり、そこで行った)が行われ、最後に著者が湯をかける真似をして終了となった。もちろん、葬式は家族葬で行われた。

 葬儀は地域によって大きく違っていたのだが、今や葬儀社による葬儀、さらには家族葬が主流となったことにより、全国均一化しているのかもしれない。おじさんの母は、この3月特別養護老親ホームに入居した。その際看取りもお願いし、「エンゼルケア」(かつての湯灌に相当?)もお願いした。かつてのような湯灌はもう見ることもないし、葬儀自体が大きく変わってしまったと思う。

 
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