今日の話は、ずばりウンコにまつわるものだ。「ウンコ」と聞いただけで、ブログを読むのを止めないで欲しい。元ネタは、湯澤規子著「ウンコはどこから来て、どこへ行くのかー人糞地理学ことはじめ」(ちくま新書)。誰でも人文地理学なら聞いたことあるけれど、人糞地理学なんて聞いたことないこと請け合いだ。ウンコとは幼児語でウンチとも言う。食料を口から食べた残り滓がお尻からウンコ(大便というと余計に汚くなる気がする。)として排出される。そしてウンコやオシッコは、今は処理場や浄化槽で処理され、川や海に流される。しかし、昔といってもつい最近までポットン式の汲取り用のトイレだったはずだ(もちろん都市ではかなり早く水洗便所が普及していた。大学生の時、自宅はポットン式、下宿先は水洗便所(和式)だった。この時代までは自分の身体から出たウンコを眺めることができたが、今や眺めることが出来るのは人間ドックの時の検便時だけとなった。
うんこドリルに人気がある 子どもにとってウンコは案外人気がある
子どもの頃母親の実家によく遊びに行った。いとこたちとの遊びは楽しかったが、実家のトイレは子どもには怖かった。小屋の一角にあったトイレは暗く、板の間に穴と◯隠しがあっただけだった。暗くて自分のウンコを見るはできなかった。もちろん尻は灰色のちり紙だった。自宅に浄化槽が設置され、水洗となったのはいつ頃か記憶がないが、20年前くらいに増改築した時に町役場の指導(もうこの頃は単独槽は認められていなかった)により合併槽を補助金をいもらって設置した。この際、公共下水処理場ができたら、そちらに繋ぎますという念書を入れた。そして、最近その下水処理場が完成し、家の前に下水管が通った。しかし、なぜか繋ぐことは求められなかった。現在の合併槽を壊れるまで使って良いということだった。
山登りを趣味とするおじさんには、山のトイレ事情も大きく変わったところとやむを得ない事情により相変わらず変わらないところがある。変わらないところは、大部分の山小屋は処理後地中浸透か沢等に放出していること。一部ヘリで空輸している山小屋もある。ただし、かつては処理せずに放出していたが、現在はバイオとかで科学的方法で処理したあとで放出している。3年前に南アルプス北沢峠近くの仙水小屋で見たトイレは下に流水が勢いよく流れているものだった!
昨年11月に泊ったえん燕山荘のトイレ 臭いが全くしない快適なトイレだ
富士山に設置された新しいタイプのトイレ 屎と尿を分けるのだそうだ
かつて富士山は登山客がいなくなった頃合いを見計らって屎尿を周辺にぶちまけていた。後に白い紙の残骸が残り、これが問題となった。
お尻を拭いた紙を便槽に入れないようにしている山小屋が多い。集めた紙は焼却、屎尿は沢等に放出するからなのか?
やっと本の紹介にたどり着いた。日本で人間の糞尿が肥料に用いられたのは、二毛作(米を作った後に麦等を作る)が普及した鎌倉時代。百姓たちにとって、購入しなければならない肥料を金肥(魚肥、油かす)と言い、安価あるいは自給できる肥料として下肥(しもごえ)があった。江戸時代は究極のリサイクル社会だと言われているが、18世紀中頃江戸の人口は100万人で、一年間に総額2万両(今のお金で8~12億円)の下肥が取引されていた。もちろん、お金を払っていたのは百姓でその下肥を作物の肥料として使用していた。幕末に日本は訪れた西欧人はこの臭いと光景にびっくりしたそうである。西欧では家畜の糞尿を肥料とし、人間のそれを資源とする発想がない(一部イギリスなどで使われたと書いているが。もちろんアジアには多くの使用例がある。)。
下肥の歴史は戦後もなお続いたが、大都市に人間が集中し、そこから発生する屎尿はリサイクルすることができなくなった。処理方法が完成する前にはかなりの量が海洋投棄されていた。おじさんの記憶ではリヤカーを使って屎尿の汲取り、運搬が行われていた。この際出る臭いは相当なものであった。おじさんの父親も自宅のトイレの汲取りを行っていた。汲み取った屎尿は、田んぼや畑の一角にある大きな坪等に入れられ、そこで発酵するのを待って、肥料とされたのである。このためか、小学校時代には寄生虫の駆除のため薬を飲まなければならなかった。そのうち、バキュームカーなるものが登場(1950年に川崎市で初登場)、著者はこれがあったからこそ都市への人口集中、そして高度成長が可能になったと書いている。また、東京オリンピック(1964年)に向けて下水道の普及が進んだ。
お尻を拭くということもかつてはその場所で利用できる物が使われた。日本では蕗の葉なんかは最高で藁とか色々なものが使われた。江戸時代には浅草紙という再生紙(紙くずを集める人がいた。ごわごわで灰色の紙だそうだ。)が使われた。木べらというのもあった。砂漠地帯では砂だそうだ。左手で砂を使う(想像するのが大変難しい)。それが段々とロール式のペーパー(アメリカでは1930年代から普及、日本では明治30年に輸入されたという。日本のメーカーが作り出すのは戦後)が主流となった。これに関連して米原万里著「パンツの面目ふんどしの沽券」という抱腹絶倒なエッセイがある。戦争に負け、シベリヤ送りとなった日本軍の兵士たちにとって、乏しい食料等とならぶ困りごとにトイレにお尻を拭く紙が置いていないという話が出てくる。著者が調べたところ、ソ連軍の兵士たちはお尻を拭かないという事実だった。だから、その必要性など理解できなかったということだった。
ウォシュレットのキャッチコピー「お尻だって洗って欲しい」が出たのは1981年、今やかなりの家庭が椅子式の水洗であろう。このため、子どもたちはポットン式のトイレなどあろうものなら排出もできないと聞く。しかし、我が町にはいまだバキュームカーが厳然と存在し、控えめであるが周辺に「いなかの香水」を漂わせてくれるのである。
うんこドリルに人気がある 子どもにとってウンコは案外人気がある
子どもの頃母親の実家によく遊びに行った。いとこたちとの遊びは楽しかったが、実家のトイレは子どもには怖かった。小屋の一角にあったトイレは暗く、板の間に穴と◯隠しがあっただけだった。暗くて自分のウンコを見るはできなかった。もちろん尻は灰色のちり紙だった。自宅に浄化槽が設置され、水洗となったのはいつ頃か記憶がないが、20年前くらいに増改築した時に町役場の指導(もうこの頃は単独槽は認められていなかった)により合併槽を補助金をいもらって設置した。この際、公共下水処理場ができたら、そちらに繋ぎますという念書を入れた。そして、最近その下水処理場が完成し、家の前に下水管が通った。しかし、なぜか繋ぐことは求められなかった。現在の合併槽を壊れるまで使って良いということだった。
山登りを趣味とするおじさんには、山のトイレ事情も大きく変わったところとやむを得ない事情により相変わらず変わらないところがある。変わらないところは、大部分の山小屋は処理後地中浸透か沢等に放出していること。一部ヘリで空輸している山小屋もある。ただし、かつては処理せずに放出していたが、現在はバイオとかで科学的方法で処理したあとで放出している。3年前に南アルプス北沢峠近くの仙水小屋で見たトイレは下に流水が勢いよく流れているものだった!
昨年11月に泊ったえん燕山荘のトイレ 臭いが全くしない快適なトイレだ
富士山に設置された新しいタイプのトイレ 屎と尿を分けるのだそうだ
かつて富士山は登山客がいなくなった頃合いを見計らって屎尿を周辺にぶちまけていた。後に白い紙の残骸が残り、これが問題となった。
お尻を拭いた紙を便槽に入れないようにしている山小屋が多い。集めた紙は焼却、屎尿は沢等に放出するからなのか?
やっと本の紹介にたどり着いた。日本で人間の糞尿が肥料に用いられたのは、二毛作(米を作った後に麦等を作る)が普及した鎌倉時代。百姓たちにとって、購入しなければならない肥料を金肥(魚肥、油かす)と言い、安価あるいは自給できる肥料として下肥(しもごえ)があった。江戸時代は究極のリサイクル社会だと言われているが、18世紀中頃江戸の人口は100万人で、一年間に総額2万両(今のお金で8~12億円)の下肥が取引されていた。もちろん、お金を払っていたのは百姓でその下肥を作物の肥料として使用していた。幕末に日本は訪れた西欧人はこの臭いと光景にびっくりしたそうである。西欧では家畜の糞尿を肥料とし、人間のそれを資源とする発想がない(一部イギリスなどで使われたと書いているが。もちろんアジアには多くの使用例がある。)。
下肥の歴史は戦後もなお続いたが、大都市に人間が集中し、そこから発生する屎尿はリサイクルすることができなくなった。処理方法が完成する前にはかなりの量が海洋投棄されていた。おじさんの記憶ではリヤカーを使って屎尿の汲取り、運搬が行われていた。この際出る臭いは相当なものであった。おじさんの父親も自宅のトイレの汲取りを行っていた。汲み取った屎尿は、田んぼや畑の一角にある大きな坪等に入れられ、そこで発酵するのを待って、肥料とされたのである。このためか、小学校時代には寄生虫の駆除のため薬を飲まなければならなかった。そのうち、バキュームカーなるものが登場(1950年に川崎市で初登場)、著者はこれがあったからこそ都市への人口集中、そして高度成長が可能になったと書いている。また、東京オリンピック(1964年)に向けて下水道の普及が進んだ。
お尻を拭くということもかつてはその場所で利用できる物が使われた。日本では蕗の葉なんかは最高で藁とか色々なものが使われた。江戸時代には浅草紙という再生紙(紙くずを集める人がいた。ごわごわで灰色の紙だそうだ。)が使われた。木べらというのもあった。砂漠地帯では砂だそうだ。左手で砂を使う(想像するのが大変難しい)。それが段々とロール式のペーパー(アメリカでは1930年代から普及、日本では明治30年に輸入されたという。日本のメーカーが作り出すのは戦後)が主流となった。これに関連して米原万里著「パンツの面目ふんどしの沽券」という抱腹絶倒なエッセイがある。戦争に負け、シベリヤ送りとなった日本軍の兵士たちにとって、乏しい食料等とならぶ困りごとにトイレにお尻を拭く紙が置いていないという話が出てくる。著者が調べたところ、ソ連軍の兵士たちはお尻を拭かないという事実だった。だから、その必要性など理解できなかったということだった。
ウォシュレットのキャッチコピー「お尻だって洗って欲しい」が出たのは1981年、今やかなりの家庭が椅子式の水洗であろう。このため、子どもたちはポットン式のトイレなどあろうものなら排出もできないと聞く。しかし、我が町にはいまだバキュームカーが厳然と存在し、控えめであるが周辺に「いなかの香水」を漂わせてくれるのである。