城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

少子化と移民政策 19.8.26

2019-08-25 19:47:18 | 面白い本はないか
 娘と孫が帰り、大人だけの静かな生活が再開された。小さな孫達の世話で疲れた私たち祖父母、しかし、しばらくすると孫達が来るのを心待ちする。あと何年この楽しさを味わうことができるのだろうか。ラジオ体操が盆休みをはさんで、再開されたが、出てくる小中学生は減るばかりである。

 私は、日本における最大の課題は、少子化であると考える。人口が減っては、経済はおろか、防衛だって差し障りが出てくる。私たち団塊世代(1947年から49年)は270万人/年、その子どもたちの団塊ジュニア世代(71年から74年)は210万人/年。普通であれば団塊ジュニアのジュニア世代が1995年あたりから子どもを生むはずであった。ところが3回目のベビーブームは起こらなかった。2018年の出生数は、わずか91.8万人に過ぎない。どうしてこんな事態になってしまったのか。対策はなかったのか。

 高齢者対策として、1989年ゴールドプランが作成され、高齢者介護の基盤整備が始まった。これに遅れること5年、94年に少子化対策としてのエンゼルプランが始まったが、どちらかというと保育所対策に集中していた。99年には新エンゼルプラン、04年には少子化対策大綱ができた。しかし、現在のところその効果は全く現れていない。

 少子化の原因は、若者達が結婚しなくなったことが第一である。団塊世代の男では、20代で51.7%、30代で88.2%が結婚した。一方、団塊ジュニアでは20代で30.6%、30代で64.4%が結婚した。2015年には生涯未婚率が男23.4%、女14.1%となった。これは若者達が結婚したがらなくなったということであろうか。どうもそうではないようだ。結婚したくても出会いがないというのもあるが、最大の理由は就労の不安定さによるものである。団塊ジュニアが就職期を迎えた90年代、日本はバブル崩壊に見舞われ、99年には就職氷河期が始まっている。

 前田正子著「無子高齢化ー出生数ゼロの恐怖」は言う。日本の政策は、小出し過ぎる(ガダルカナル以来おなじみの日本のやり方である)ということだが、やはりここまで深刻になるとは考えていなかった故のこと。現在でもあまり変わっていないように思われる。著者は「少子化対策・若者支援庁」をつくることを提言する。

 少子化の影響で労働者が減ることを懸念し、財界主導で新たな外国人労働者受け入れが始まろうとしている。先日、近くで家屋の取り壊しの現場に明らかに外国人らしき2名が作業に従事していた。監督に聞くと、トルコ人という答えだった。てっきりスリランカかバングラデッシュかと思った。今や、建設、農業関係を中心に外国人労働者を見ないことはなくなった。日本は、過去に外国人技術研修制度や日系人受け入れ制度などを創設し、低賃金で彼らを雇用し、産業の生き残りを図ってきた。かつては、中国人研修生の大量逃亡、あるいは労基法違反の雇用さらには人権にもとるようなことを行った。 少子化の対策として外国人労働者に依存することは認めざるを得ないと思う。しかし、過去の様々な問題がきちんと精算されない中で、さらに大規模化するのは大いに考えものである。

 安田浩一著「団地と移民」を興味深く読んだ。高度経済成長時代に若者の流入に対して、郊外を中心に大規模団地が作られた。こうした団地では、今住民である日本人の急速な高齢化が進んでいる。これに対して急速に増えているのが、中国人住民である。また、愛知県や群馬県の自動車産業の城下町ではブラジル等の日系人である。ごみの出し方などをめぐる日本人住民からの苦情などから日本人住民はURに対し外国人をこれ以上入居させないように申し入れている。一方、日本人と外国人の交流を図ろうという動きも出ている。

 中国人やブラジル日系人の指摘する日本人像が面白い。日本人は人と人との間に我々と比べて距離がある。我々だったら、隣同士になっただけですぐに会話が始まり、食べ物のやりとりも始まる。ところが日本人同士、ましてや外国人との間では大きな壁を作る。これでは外国人との共生以前の問題である。著者は言う、外国人といっても特別な人たちではない、普通の人たちなんだということをかみしめたい。
 
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沢上(ソウレ)谷 17.8.29

2019-08-24 20:41:39 | 山登り
2年前の記録です。少し暑さも和らぎましたが、涼しさをお届けします。


高原川支流・沢上谷沢登り



 久しぶりの好天下、旧上宝村鼠餅(ねずみもち)にある沢上(ソーレ)谷に行ってきました。ひるがのあたりの気温は15度前後とはや秋の中盤かと錯覚するような天候で、ガスも濃く出ていました。廃村となった箕谷付近のゴール地点に一台車をデポし、15分ほど車で下り、入渓地点に車を停め、8時40分頃出発。諏訪ナンバーの車で3人組も我々と同じコースと推測されました。出発してすぐに小さな滑滝が現れ、さらに枝谷を進むと五郎七郎滝(写真)が現れました。


その後本谷に戻り、再び枝谷を進むと圧巻の高さの岩洞滝(写真)が姿を見せました。この滝は水が落ちる裏側に出ることができます。

再度本谷に戻ると高さ30mはあろうかという巨大な滑滝(写真)が見えてきた。滝を見ながら大休止。


この後、約50mの滝を巻きながらの急な登りで、最後は立派な杣道に達した。これで一安心と思っていたら、固定ロープをつかみながらの懸垂下降のような下りが待っていた。今回最も緊張したところ。最後に降りたところは、さきほどの滑滝のまさしく落下点近く、ここのナメで足を滑らせたら、一巻の終わり。終盤のころ、会員の中からナメや滝を使っての水浴び者が出た。特にリーダー杉本さんの滑滝を利用しての滝壺ダイブは圧巻だった。最後の大きめの滑滝は右側に垂らされたロープを使っての登り(写真)で全く飽きることがない。

最後にコンクリート橋が見えてくるとそこがゴールで、12時50分着。

今回の沢上谷は、初級者向きの沢登りとリーダーから聞いた。しかし、雨が続くためか水量が多く、水流も強いため、意外と緊張を強いられた。特筆すべきはこの谷の美しさですが、やはり行ってみないとわからない。
一般登山路を行く登山と違って、沢登りは経験のあるリーダーと行かないと経験できない。我が会には多くの経験者がいることは非常に貴重だと思います。
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日韓の共通の歴史認識は可能なのか? 19.8.22

2019-08-22 20:36:10 | 面白い本はないか
 山の仲間でお酒を飲んだ席での話だが、今話題の日韓の話となった。彼曰く、子ども、孫の世代まで植民地、慰安婦、徴用工等に代表される日本の加害者責任を負う必要があるのだろうか。私は、即座に個人として子ども、孫の世代が責任を負う必要はないと応えた。その時に生まれていない私たち団塊世代も責任を負うことはないし、負いようがないと思われる。戦後の世代が持つ責任とは、日韓の間で起こった歴史を正しく認識することであると思う。

 しかし、この歴史を正しく認識することがとてつもなく難しくなっている。随分前に読んだ本、「日韓歴史認識問題とは何か」木村幹著から引用する。歴史認識は、過去の事実に関わる問題である以上に、現在を生きる我々自身の問題である。各国の教科書に書かれているのは、歴史的事実以上にそれぞれの歴史「認識」そのものである。歴史の専門家が集い、議論を積めば、やがては日韓共通の歴史教科書が作れるというのは幻想でしかない。著者は、両国の世論において、日韓関係がもはや重要でないという声が頻繁に聞かれるようになったことが問題だと指摘している(重要でないから何をしてもいいんだということになる。冷戦の終了、日本の国力の相対的低下によりもたらされた)。韓国ばかりでなく、日本においてさえも、歴史修正主義を掲げる論者が多くなっている現状では、正しい歴史認識を知ることは難しくなっている。

 読んだばかりの「日本統治下の朝鮮ー統計と実証研究は何を語るか」木村光彦を紹介する。韓国で高名な歴史学者が20年前であるが「朝鮮における日本の支配は世界の植民地の中で最悪のものでした」と言っているのを聞いた。その時、この学者は世界の植民地支配を全て調べ比較したうえでこの結論を得たのだろうかと著者は思った。日本でも過去には植民地支配を激烈に批判する本が出ているが、実証研究が進んだ今少し事情は変わりつつある。この本は、農業生産の増加ばかりでなく、鉱工業生産の飛躍的な伸びを述べている。北朝鮮の豊富な水資源、鉱物資源を開発し、加工するために日本本国でも導入されていない最新設備を稼働させた。こうした事実は、植民地を一方的に収奪したという説明とは矛盾する。戦後北朝鮮に多く残された遺産であるが、その後の発展には十分生かされなかった。

 この本は、経済的なことに絞ったため(著者は経済学者で歴史学者ではない)、創氏改名や人民統制などについては述べていないので、植民地統治の総合的な評価はできないが、少なくとも最悪の植民地経営ではないと思わせてくれる。よく政治家や私のまわりの人が日本は良いこともしたと必ずしも根拠なく言うことがあるが、こう言える時期が果たしてくるのかはよく分からない。

 最後に政府は韓国に対し、輸出手続きを厳しくし、これに対して韓国も報復措置をとる事態となっている。日本政府は、一体韓国にどうしろと言っているのかが良くわからない。単に徴用工問題や慰安婦問題の対抗措置としてというだけなら、両国の関係が悪化するだけになると思うのだが。
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30年前の記憶をたどり登った白山・平瀬道 19.8.11~8.12

2019-08-15 13:33:59 | 山登り
 大垣山岳協会の年間山行計画の中で8月11日、12日と編集者がリーダーを務める白山・平瀬道が決まっていた。この計画で一番気がかりなのは、平瀬~大白川の道が通行止めにならないかであった。また、予定日は宿泊を予定する室堂センターが混雑を予想し、5月には早々と12名で予約した。
 7月の機関紙「わっぱ」で募集し、最終的に10名(男3名、女7名)の参加申込があった。車2台に分乗し、大垣を5時に出発。荘川インターから156号線に入り、御母衣ダムを越え、大白川への道に入る。ネットで何回も確認したが、ゲートは閉まっていない。ほっと胸をなで下ろした。大白川登山口の駐車場は既に満杯に近かった。岐阜に住む人間にとって、石川県の別当出合よりも馴染みが深い。それでもここを登ったのは平成元年だから、すでに30年以上も前の話。どのように変わったか、楽しみであるとともに歳を重ね、果たして登れるか少し不安でもあった。



<8月11日>
 身支度を調え、いざ出発。登山口で登山計画書を提出。昔はなかった階段の道が続く。登山口から2時間、振り返ると鎗穂高連峰がくっきりと見えてきた。すぐ左には三方崩山のどっしりした山容が控えている。

 三方崩山
出発から3時間で大倉山避難小屋に到着。

早い出発でお腹もすいてきた。ここで早いお昼を食べる。参加者の昼食は様々、おにぎり、パン類、カップヌードル、私は夏定番のとろろそば。いよいよ後半戦の登りが始まる。小屋を過ぎると次から次へと高山植物が現れる。タカネヤハズハハコが登山道周辺に多い。カンクラ雪渓は昔と比べると随分小さくなっている。

 花を楽しみながらも、暑い中やはり登りはきつい。

 タカネナデシコ

 シモツケソウ
やっと大倉尾根の最上部に出た。ここから室堂へはなだらかな道が続く。タテヤマリンドウが愛らしく小さな花をつけている。

オンタデも群生している。

やがて室堂センターが見えてきた。到着後、登山者で混雑するセンターで宿泊の手続きを行い、宿泊場所に案内される。着替えの後、センター前で至福の時を過ごす。これは登山した者だけが味わうことができる時間だ。また、ここには生ビールもあるし、コーヒーも売っている。夕食は17時20分からだったが、食堂はまるで社員食堂を思わせる。センターの裏手からは日没近い別山の秀麗な山容を見ることができる。

<8月12日> 
 当初の計画にはなかったが、ご来光を見るため、4時15分室堂を出発。ルートには提灯行列ならぬヘッドランプ行列が続いている。山頂に登る道も昔に比べると随分整備されている。約35分で大混雑の山頂に到着。ご来光を見るための場所を確保。岩の上には白山神社の宮司さんらしき方が立ち、ご来光の上がる場所、山の説明等を行っている。三俣蓮華岳あたりから5時10分ご来光。

 当初室堂から翠ヶ池の周遊だったが、逆回りとし、さらに大汝峰の登頂が加わる。千蛇ヶ池はほぼ雪渓に覆われている。この付近も高山植物が多い。アオノツガザクラ、花期は過ぎたチングルマもある。

 アオノツガザクラ
 大汝峰の登りには少し岩場もある。山頂は随分広い。下山後池めぐり、かつては池があったと思われるところもある。確実に温暖化は進み、降る雪の量が減り、池が干上がる。
最後の登りは御前峰。今日は2回登ったことになる。山頂で記念写真、皆の笑顔が素晴らしい。



 室堂地区のハクサンフウロの群生

 室堂まで戻り、各自昼食。
 室堂を11時後にする。途中で黒百合を発見した。7月が花期なので、なかなかお目にかかることができなかった。大倉尾根の下りにかかる。登り余裕がなくて気づかなかった花たちに再会した。今回大倉尾根を登って気づいたことは、、登山口からの標高差1200mにもかかわらず、随分登りやすいし下りやすい道であるということだった。2時半下山後、平瀬で温泉に入り、汗で汚れた体をリフレッシュした。今回、全員が無事に下山し、泊まりの山行は始めてという参加者もいたが、十分楽しめたということなので良かった。

行程 8月11日 大垣5:00=大白川登山口7:45→大倉山避難小屋10:40~11:20→室堂13:40
   8月12日 室堂6:55→大汝峰8:04→御前峰10:47→室堂10:25~11:00→大倉山避難小屋12:20→大白川登山口14:30

※今回の計画には、年齢のためペースが遅く、しかもマイペースの参加者がいた。このため、若い年齢層(といっても50代)を中心に遅いペースに戸惑った参加者もいた。体力差のあるなかでのグループ登山はやはり難しい。
※※リーダーであるおじさんは、大倉山避難小屋を過ぎるあたりからけいれんに見舞われた。ゆっくりしたペースなので、そのまま登っていると室堂が近くなった時についには足が棒のようになってしまった。室堂センターは見えているのに、その遠く感じたこと限りなしだった。避難小屋でツムラの漢方薬を飲んでいるにもかかわらず起こった。原因はよくわからない。
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