城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

池田山・大津谷登山口から 22.1.29

2022-01-29 19:18:32 | 山登り
 今このブログを山本潤子のアルバムを聴きながら書いている。彼女はおじさんと同じ1949年生まれであり、誕生日も9日間しか違わない(おじさんがわずかに年長)。このアルバムを最近聴くことが多くなった。彼女の歌声が最近のおじさんの心模様に最もフィットしているかもしれない。

 今朝は6時に起き、読みかけの青木栄一著「文部科学省ー揺らぐ日本の教育と学術」を少しだけ読んだ。その後仏壇に御仏飯と神棚に水を供えた。朝食の準備が整ったところで、母親の居室でおしめの交換及び褥瘡の手当(薬の塗布とガーゼの交換)を家内がするのを手伝う。引き続き車椅子に乗せて、キッチンで朝食を食べさせた(まだ自分で食べることができるし、私たちの食べるものと同じ)。今日は割と母親は私たちの言うことに従順であった(こんな日ばかりであったなら、家内のストレスも随分少ないことであろう)。

 23日に大ダワに登って、その次の涌谷山(2月6日)まで少し時間があることから、池田山に出かけることにした。霞間ヶ渓からだと時間がかかるので、いつものように大津谷から登った。登山者ではない軽トラック一台のほかは一台も車がなかった。8時22分に出発してすぐある獣害柵のチェーンを解くのに苦労した。このコースは最初とすぐその後の急登によりいつものことだが息が切れてしまう。600m付近から雪道となるが、意外と足跡は少ない。登山口から1.4km付近まではやたらと標識があるが、その後極端に少なくなる(なぜなのか?)。

 登山口 この先の獣害柵のチェーンを解くのに苦労した

 登り出してから約30分で雪の道となる

 完全に雪の道

 何回も登っている道だが、雪道だと受ける印象が全然違ってくる。基本は尾根道であるが、さほど明瞭な道ではないので、トレースがないと一人では少し不安となる。約1時間半で林道に出るが、トレースはない。

 1時間半で林道に出るが、この先のトレースはなかった
トレースは林道ではなく尾根を忠実に登っていることを教えてくれる。とりあえず踏み跡のない林道を進む。意外と埋まらない!林道の雪は山側から谷側に山型になっている(林道の真ん中が一番高い)。風の影響だと思うのだが、なぜこのよう形になるのであろうか。ハンググライダーの道から少し上がるとパラボラアンテナ、ここまで2時間を要した。12時までに帰ることにしていたので、お茶の後引き返す。ここで二人の登山者にあったが、結局今日会ったのはこの二人だけだった。

 パラボラアンテナと池田山山頂付近 ここ(標高830m)ら引き返す

 揖斐の街 その先にあるのは魚金山?か
 
 帰りに大津谷公園を車から見たが、キャンプ客が結構大勢来ていた。最近のキャンプ熱の高まりを感じた。 帰宅後、母親を車いすに乗せ昼食、パンのお代わりをした。



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大ダワに登る 22.1.23

2022-01-23 15:32:23 | 山登り
 揖斐川町川上地区から夜叉ヶ池方面に右折すると、すぐに夜叉龍神社が雪の中埋まるように建っていた。

 犬を二匹連れた地元のおじさんと少し話す

神社前の駐車場で準備をしていると隣の車に見慣れた顔があった。OSKのN氏、岩登りや山スキーが大好きで今日も戸粕(三等三角点1076.84m)に単独で山スキーに来たとのこと。我々が目指すのは、戸粕の坂内川を挟んで西側の通称大ダワ(点名は川上、二等三角点1067.55m)。どちらが帰ってくるのが早いかなどと言いながら別れた。大ダワに最初に登ったのは、3年前の2月11日でその時は雪が少なく、最初の半分くらいは雪がほとんどなく、ブッシュが出ていた。やっと雪が出てきて、約4時間かけて山頂を踏んだ。

 今回のメンバーは、ダブルOさん、Yさん、Kさんとおじさんの5人。スノーシューやワカンをそれぞれ着けて7時45分頃出発。曇っているが、風はない。すぐにトレースがあることを発見し、これを使わせていただくことになる。これで今日の登頂はほぼ間違いないことになった。トレースがあってもいきなりの急登は大変。最初はYさんが先頭、それが終了すると細い尾根を登り、すぐにもう少し広い尾根の登りとなる。Kさんが先頭となりどんどん登って行く。先行の登山者の歩幅は大きく、かなり大柄だったようだ。やがて、右手の方に蕎麦粒山が見えてくる。健脚のOさんが先頭になる。今年新調したスノーシュー(すでに伊吹弥高尾根、戸粕、ツルベに使用)で快調に登って行く。やがて最後の登り、これが急だった。


 8:33

 9:04 蕎麦粒山

 9:31

 最後尾がおじさん この日先頭を務めることはなかった(申し訳ない) Oさん提供

 登り切れば、あとは緩やかな斜面が広がっている。

 山頂まで緩やかな道が続く

まさしくスノーシューの世界だ。それでもトレースを外れると深く埋まる。緩斜面の先にある大ダワに10時55分に到着、登山口から3時間と少し。トレースのおかげで予想よりも早く着いた。曇り空ながら山頂からは金糞岳、伊吹山、琵琶湖竹生島などがよく見える。体力のある登山者はここから土蔵岳(約1時間から1時間半)までさらに進む。車が二台あるなら八草トンネル付近に降りる周回コースも面白いかもしれない(昨年我々はトンネル付近から土蔵岳を往復したが、体力的にこの周回コースは無理。)山頂も無風でゆっくりと昼食、それでもしばらくすると冷えてくる。今朝登山口付近の気温はマイナス6度、登り始め指が少し痛かった。

 大ダワの標識 3年前はもっと上の方についていたので、この冬は相当雪が多い

 山頂からの金糞岳

 左伊吹山、右金糞岳

 スノーシューはワカンと比べると下りは苦手だ、しかし、今回下りについては踏み固めた道を降りずに、新雪の中を降りてゆくのはワカンに劣らないことを確認することができた。ただし、雪の表面が凍結してくると事情は違う。Oさんが言うようにスノーシューが使えるのは、2月まで。その後は壺足とアイゼンだと。駐車場に13時10分に到着、下りは1時間40分だった。戸粕に行ったN氏はまだ帰ってきていなかった。山スキーは急斜面の登りでは大きなジグザグになり、スノーシューより時間がかかる。

 真正面に蕎麦粒山 下山時

コースタイム 登山口7:45→大ダワ10:55~11:30→登山口13:10


 大ダワの位置は左上の「1067.5」と表記してあるところです
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山小屋クライシスを読んで 22.1.19

2022-01-19 18:52:53 | 山登り
 佐賀県の山岳会に所属する高齢者3人が八ヶ岳天狗岳で遭難した。同じ高齢者として、いましめとして以下にごく常識的な考えを書いてみた。具体的な登山計画が明らかでないので、あくまで想像しながらであることをお断りしておく。とにかく考えられないような事故であること、その最たるところは救助の要請が17日19時50分、あたりは真っ暗で体力が残っていたとしても進退窮まるところであろう。不思議に思うのは、こんな時間までどうしていたのかという点である。通年営業している天狗岳直下の黒百合ヒュッテの情報によると17日より少し前の積雪が70cmと出ていたので、彼らがいた場所ではもっとあった可能性が高い。私たちが登る奥揖斐の山々では少なくとも12時になったら、無条件に引き返すことにしている。天気が悪ければ(そんな時は行かないようにしているが)、もっと早めに判断する。

 少し彼らのとったコースを想像してみる。最もポピュラーなコースは渋ノ湯から黒百合ヒュッテを経て、天狗岳に登る。もう一つは唐沢鉱泉から直接天狗岳に登るもので、夏道で3時間で最短のコースである。彼らはどこから登ったのであろうか。私は唐沢温泉から登ったと推測した。というのは渋ノ湯からであれば、黒百合ヒュッテに到着した時点で明るいうちに帰ってくることは不可能であることがある程度わかるだろうと思うからである。唐沢温泉から入った彼らは思いがけない積雪に苦労しながら天狗岳に登ったのであろう。とにかく天狗岳までは登ったが、暗くなり小屋にたどり着くことができなかったものと勝手に推測した。体力がある50台以下ならいざしらず、70台2人、80台1人である。それと九州の山岳会では雪のある山に登る機会は多くないであろうから、いかに積雪期と無雪期の登山が違うのか身体で実感することが少ないと思う(九州の方ご免なさい。あくまでも一般論なので。)この少ない機会に登りたいという気持ちはわかるが、やはり安全登山第一とすべきなのである。

 コースタイム図 下の第一展望、第二展望を通るコースが唐沢鉱泉コース(このルートは登ったことがない)

 以上が前置きである。ここからは、吉田智彦著「山小屋クライシス」(ヤマケイ新書)によって山小屋の抱える様々な問題を考えてみる。正直これほど問題が山積していることに少々驚いた。今山小屋を直撃しているのが、新型コロナであり、2020年には営業休止となった山小屋があったり、営業開始が遅れた山小屋もあった。新型コロナに対応するため、完全予約にしなおかつ収容人数を半減させたところが多かった。この新型コロナの前、2019年にはヘリコプターによる荷揚げを行う会社のヘリの修繕が必要となり、夏の繁忙期に間に合わないところも出てきた。有名な所では、この本での半ば共著者とでも言っていいような雲ノ平山荘の主人の伊藤二朗氏のところもヘリの会社と契約を結ぶことができず、その荷揚げに苦労したようである。かつては(1960年代以前)人力による歩荷(ぼっか)によっていたのだが、大部分の営業小屋はヘリによる荷揚げに切り替えた。このヘリの活躍によって、山小屋のサービス(生ビール、コース料理等々)が格段に向上した。今回のコロナは元々山小屋が抱えていた問題をより見えるものにした。

 皆さん是非読んでください!!

 三俣山荘で目撃した富山県警のヘリ 2018年7月

 雲ノ平山荘 2018年7月

 山小屋の利用者は最近減る傾向にある。一つは中高年登山ブームが過ぎ去ったことである。確かに10年前には名古屋発の登山ツアーが多くの旅行会社によって企画されていた。その時、おじさんは百名山の半分ほどをこのツアーに参加して登っていた。今やそうしたツアーは数えるほどしかない。そしてキャンプブームで山小屋に泊らず、(一人)テントに泊る登山客が多くなった。そこにヘリ問題(需給が逼迫すると荷揚げ代金が上がる)とコロナが重なった。宿泊者は減り、経営困難となる山小屋が多くなる。山小屋は厳しい環境(半年間以上雪の中に閉ざされる)にあり、補修が常に必要となる。時には大規模な修繕も必要となる。トイレ改善も多額な費用が必要となる(環境に易しいトイレとするために国、自治体の補助金があるが、四分の一程度の小屋負担は必要)。こうした山小屋自体の維持が難しくなりつつあるのである。

 山小屋の果たす役割で私たちが認識していないのは、登山道の整備である。登山道の整備は本来、国立公園内であれば環境省(あるいは林野庁)が行うのが理想的であるのだが、それが行われていない。予算が非常に少なく、また職員が少ないこともありその整備必要箇所に目が届かないのである。登山道、特に登山者が多いところでは崩壊などを起しやすい。かつて作られた木道も十分メインテナンスされずに、木道から降りて歩くところも多く見られる。

 日本とアメリカ、イギリスの比較 職員一人当りの管理面積 中部山岳国立公園約173平方キロ、イエローストーン約27平方キロ、ピークディストリクト約5平方キロ

国立公園であれば本来国が責任を持つべきだと思うのだが、この予算と職員数ではどうしようもない。そこで山小屋や山岳会や自治体がやむを得ず整備をしている(もちろん整備をしていないところの方が断然多い)。この責任はやはり国民の自然環境の保全、国立公園に対して国民の財産だとする考えが薄いからということになる。

 国、自治体、山小屋オーナー、山岳会、 ボランティアなどによる協議会を組織し、問題を話し合うという試みがあちこちで行われているのだが、予算も人員も不足している。現在山小屋は、温泉地にあるホテルと同じ扱いになっている。行政が作った避難小屋と山小屋は違う扱いになっている。これを公園事業の中で、山小屋の機能を明確にし、登山道整備などインフラ整備のためのお金は国が負担するようなことを考えるべきだと識者は述べている。

 おじさんとしては、国民の財産ともいうべき国立公園等の適切な管理のために、目的税を新設して財源にすることはできないのかと考えたりするのだが(日本では環境税の導入も財界の反対がある難しいようだ)。 
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日本の戦争指導者 22.1.16

2022-01-16 19:39:59 | 面白い本はないか
 それぞれの組織、グループにおいて指導者(リーダー)の果たす役割が大きいことは言うまでもない。例えば山行でのリーダーが優秀であれば、難しい山でも安全に登ることができる。もっと大きな組織、例えば会社であればいくら従業員が優秀であっても経営陣がぼんくらであれば経営はじり貧となる。まして、戦争指導者がぼんくらであれば多くの兵士が命を失い、戦いには負けてしまう。この傾向は、アジア太平洋戦争において顕著であり、ムダに多くの兵士が命をなくし、国民も塗炭の苦しみを味わった。

 年末に読んでいた「東条英機」などはその最たる例である。天皇に仕える優秀な官僚的軍人であったかもしれないが、「死して虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)」「高射砲でB29を落とせないのは落とそうという気合いが足りないからだ(実は弾が届かない、合理性よりも精神性を強調)」などは最悪の実例だ。最近読んだ佐高信著「石原莞爾 その虚飾」では、石原は東条を無能と呼ぶくらい異才の軍人だが満州事変(彼は満州を得ることによって日米の戦いに備えるという計画だった)を引き起こし(彼は満州以外の中国とは戦わないという考えだったが、満州での彼の真似をする武藤章などの軍人を生むことになった)日本が泥沼の戦争に至る端緒となった。しかし、今日の主人公はこの二人ではない。鴻上尚史著「不死身の特攻兵ー軍神はなぜ上官に反抗したのか」に登場する一兵士だ。


 特攻作戦を少し説明しておくと、その作戦が大々的に行われるようになったのは、もう敗色濃厚な44年(昭和19年)10月から海軍、半月後に陸軍が始めた。海軍の第一回の特攻隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」でゼロ戦に250kg爆弾を装備してアメリカ軍の艦艇に体当たりした。陸軍のは「万朶隊」で主人公の佐々木友次伍長は、この隊の名で9回も出撃し、そのたびに無事に帰還してきた。特攻機は、機銃装置が外され、さらに爆弾が機体に固定されていた。このため爆弾だけを落として、帰還することはできなかった。さらに見落としてならないのは、最初フィリピンにおける作戦では比較的優秀なパイロットが選ばれた。ところが沖縄戦ともなると数少なくなった優秀なパイロットではなく、飛行時間の短い学徒兵を中心に行われた。もともと艦艇に体当たりする作戦の効果に疑問があったうえに、飛行技術の未熟なこともあって、特攻作戦への対策を行うようになったアメリカ軍に対して、有効な攻撃とならなかった。最後は通称赤とんぼと言われる二葉の練習機まで動員された。

 では、佐々木伍長はなぜ帰還することができたのであろうか。これは万朶隊の岩本隊長が工夫して爆弾を投下できるようにしたからであった。ところがこの岩本隊長等の将校は、第一回目の作戦に出撃することはできなかった。その理由は愚かな司令官がいたからである。その名を冨永恭次(前職は陸軍次官、この時東条は首相で陸軍大臣を兼ねていた。陸戦の経験もほとんどなく、航空機に関して全く無知)といい反東条派がフィリピン第4航空軍司令官に彼を送り込んだ(その主役は小磯国昭内閣の杉山元陸軍大臣で、厄介払いできたという意味で「うまい人事だろう」と語ったとか)。戦争では何が必要かを考えたら、適材適所と信賞必罰しかない。これが日本の軍隊で最も欠けていて、そのくせ精神論ばかりを振り回す。これでは命がいくつあっても足りないと思うだろう。冨永司令官は無類の儀式好きで万朶隊のいた基地から400kmも離れたマニラに来い(目的は出撃前の宴会を開くこと)という命令を出した。そこに行く途中岩本隊長等を乗せた九九式双軽(4人乗り、特攻機のため機銃は外されていた。代わりに特攻の際には800kgの爆弾を付けていた。)はアメリカのグラマンに撃墜された。

 隊長等を失いながら、11月12日5人の佐々木伍長を含む5人の万朶隊は出撃した。佐々木ともう一人が基地に戻ってきた。万朶隊の戦果は大本営から戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈と発表された。このうち戦艦は佐々木の戦果であるとされたが、実際は揚陸船艇であった。このあとも生き残った者たちは何回も出撃させられた。生きて帰るたびに、司令部の猿渡参謀長から出頭の命令が来た。参謀長はこう言い放った。「この臆病者!よく、のめのめと帰ってきたな。」「レイテ湾には、敵戦艦はたくさんいたんだ。弾を落としたら、すぐに体当たりしろ。出発前に言ったはずだ。貴様は名誉ある特攻隊だ。弾を落として帰るだけなら、特攻隊でなくてもいいんだ。貴様は特攻隊なのに、ふらふら帰ってくる。貴様は、なぜ死なんのだ。」。彼の廻りの特攻隊の隊員はこうした叱責、冷たい目に耐えきれず特攻死を選んでいくのだが、彼は父親の残した言葉「絶対に死んではいけない」を固く守り、生き残った。

 特攻作戦の生みの親と言われる大西瀧治郎中将(実際は軍令部が考えた作戦のようだが)は戦後自刃した。あとから続くと言っていた多くの指導者は死ななかった。生き残った指導者たちは、特攻作戦を希望者によるものと強弁したのだが、指名ないしは拒めない雰囲気のなかでの申し出であったことは明白だ。佐々木伍長は、フィリピンで終戦を迎え、捕虜収容者に入った後、日本に帰ってきた。復員部隊の一員となって行進を続けていると、その軍人たちに向かって石を投げ始めた。そして叫んだ。「日本が負けたのは貴様らのせいだぞ!」「いくさに負けて、よく帰ってきたな。恥知らず!」「捕虜になるなら、なぜ死なないのか!」。彼は92歳まで生きて、その死の間際に本の著者はインタビューすることができた。特攻兵で終戦を迎えた人たちは、他人に自分の経験を語ることは稀だった。特攻についてもっぱら語るのは、特攻兵ではなくその廻りにいた人々であった。この人たちによって特攻兵は英雄視され、美化されてきたのである。

 こうした指導者に率いられた日本は、300万人という尊い命を犠牲にした。そして、戦没者のかなりの部分が病没によるものであり、余計に愚かな指導者による作戦の犠牲となったことは明白だった。そのことを日本人は忘れてはいけないと思う。

☆おまけー今日の城ヶ峰
 金曜日のブログで予告したが、残念ながら誰とも出会うことはなかった(8時40分~10時30分)。日曜日でしかも天気が良いにもかかわらずである。しかし、一つ収穫があった。天狗山(1149m)の東半分が山頂から見えることを発見した。これで見えたのは、小津権現山、飯盛山、西津汲に続いて天狗山となった。

 今日の城ヶ峰

 新たに見つけた天狗山

 飯盛山(右)、西津汲(左)

 小津権現山

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雪の城台山への招待 22.1.14 

2022-01-14 14:22:00 | 山登り
 未明カタカタという除雪車の音で目が覚めた。今冬初めて聞く音だった。夜から本格的な雪となり、約20cmの積雪となった。今日貝月山を予定していたなら、登山口まで行くのに苦労したであろう。朝食後、長靴を履いて、いつもどおり城台山に出かけた。見慣れた景色が雪で新鮮なものになる。

 三輪神社

 お地蔵さんも寒そう 城台山が霞んで見える

 新雪をククット(言葉で表現するのは難しい)踏みながら、最初の階段を登っていく。既に一人の足跡がある。

 広場の観音像

 広場から池田山

 一心寺の坂

 城台山

 足跡はなおも続いている。城台山までは確実に来ている。この先、城ヶ峰まで行ったのだろうか。同じ道を帰ってこれば足跡は2ペアになるはずだが、1ペアしかない。ということはこの先にいて、まだ戻ってきていない証拠だ。おじさんは城台山までで家に戻り、雪どけをする。たかだか30分あまりの仕事だがなかなかきつい。

 2月8日~10日の連休中、城台山及び城ヶ峰(9日)に登った。城ヶ峰の登り下りで日曜日であったせいか10名ばかりの登山者に出会った。昔に比べて少しずつ登山者が増えてきている気がする。この日最初に出会ったのは大光寺への分岐付近で3人のトレランの若者。年末の雪の城ヶ峰でも1人に一番乗りを許した(^0^)。いまや池田山、大野アルプスなど見かけないことはない。3日間とも会った斜めのザック(山のザックではない)の男性もいた。山とものKさんに年末に続き再び会った。ザックにはワカンが付けられていた。残念ながら雪はほとんど融けてしまっていた。10日は月一のAさんにも遭遇、城ヶ峰から小野坂トンネルに降りるという、あとからおじさんの自宅に寄って下さいとラインした(丁度この時山頂でコーヒーを飲んでいたという。)。少し道を間違え、12時頃寄ってくれた。クリスマスローズが好きなようで、つぼみを付けた鉢を見せた。

 この土日、城台山そして城ヶ峰に登ることをお薦めする。雪が皆さんを暖かく迎えてくれるだろう。おじさんも城台山までは登るつもりだが、靴は長靴が良いと思う。城台山でお会いできたら嬉しいですね。
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