昨年の9月17日付けで「国籍とは何か」を書いたが、この続編になるかもしれない「在日韓国朝鮮問題」について二つの本を紹介する。
一つは、林晟一「移民国家ニッポン練習記 在日韓国人になる」と少し古いが中村一成「思想としての朝鮮籍」。二人とも在日三世で、日本生まれで日本育ちである。
中身に触れる前になぜ在日問題に関する本を読むことが多いのだが、単純には安田菜津紀(「国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に」「貴方のルーツを教えてください」)や今回読んだ林晟一のように若い世代の書いた本が出ていること(もちろん、これらの本を選書する県図書館の司書によって収蔵されている)、そしておじさんが戦後まもなくの生まれであり、在日について聞いたこと、学んだことがあり、人ごとではないと考えているからである。そして、日本の在留外国人数は322万人(23年6月時点)と増え続けている中で、その最初の大量の在留外国人となったのが在日朝鮮人であることから、過去の日本社会の在日問題について考えてみることが必要だと思うからでもある。
なぜ日本で在日が問題になるかというと、言うまでもなく1910年に朝鮮を併合し、植民地としたからである。さらに中国やアメリカなどと戦争する中でで労働力が足らなくなり、その植民地から大量動員したことにより、最大200万人もの在日が存在することとなった(労働力が足りないとういう状況は現在再び起きている。これから日本は韓国など人口が急激に減る国と外国人獲得競争をしなければならない。)戦後130万人ほどは帰国したが、残りはやむを得ず(日本が戦争に敗れ、主権を失った朝鮮にソ連の支援する共産勢力とアメリカの支援する反共勢力が生まれ、半島は大混乱していた。)日本を生活の場として選び日本に留まった。彼らは植民地化、創氏改名などにより日本人とされたのだが、戦争が終わると外国人とされた(1952年4月、在日は日本国籍や国民としての権利を正式に奪われた。)。
※植民地であったならば、在日に日本国籍か朝鮮・韓国籍を選ばせるのが、道義的に正しいと思われる。しかし、日本は彼らによる左翼的な反政府運動を恐れ、この措置を執った。
※※1950年以前は在日の国籍は全てが「朝鮮」で、それ以後その朝鮮を「韓国」とすることがだけが認められた。一方日本は北朝鮮と国交がなく、「北朝鮮籍」を認めていないので、朝鮮籍は「北朝鮮籍」を意味しない。「朝鮮籍」を維持することは、北朝鮮を支持する、または南北統一による「朝鮮」を実現したいと思っているからと考えられている。これについては中村一成の「思想としての朝鮮籍」に詳しい。
林は、戦後の在日史を、大まかに排除の時代(1945年~70年代)、統合の時代(70年代~90年代)、再排除の時代(2000年代~)に分ける。中村の本では、詩人の高史明、金石範など1940年~1950年代にかけて青年期を過ごした6人がインタビューに答えている。まさしく、排除の時代の生き証人であり、今や消えてしまったか消えつつある世代の人々である。日本が敗戦という「生き直し」の契機を捨て去り、米国に便乗しつつ、戦後補償のネグレクトに始まる「固有の利益」を実現する道を選んだ。それは政府の暴走ではなくて、社会全体がその破廉恥に順応した。彼らはそうした順応に抗し、共産党の運動に加わったり、民族運動、民族教育、文筆活動などを積極的に行ってきた。そうした生き様がいまだに「朝鮮籍」を選択させている。
※今在日の中で韓国籍なのは426,908人、一方朝鮮籍は27,214人(2020年) どちらも減っているのは、日本国籍を取得する在日がいるからであり、また日本人と結婚する在日が数多くいることもどちらの国政も増えない理由となっている。
排除の時代を象徴するような、「日本に住む朝鮮人をすべて半島へ送還したい」と吉田茂首相は49年のマッカーサー宛書簡であけすけに述べた。そして、日本政府は、旧植民地人に日本国籍を自発的に選択する権利を与えなかった。在日は外国人登録証明書の常時携帯、指紋押捺を求められ、さらには公務員になれないし、公営住宅への入居を認められない、生活保護を除く社会保障全般の適用除外。もちろん彼らは税金を払う必要があったし、BC級戦犯となった者は、日本人同様刑に服した。一方で軍人恩給は彼らには支給されない。
排除の時代に朝鮮半島出身であるにも関わらず、日本人のヒーロー(おじさんにとってもヒーローだった)となったのが、力道山であった。相撲界に入門し、関脇まで昇進したにも関わらず出自のコンプレックスから廃業、プロレスのスター選手となった。彼は日本国籍を取ったが、ファンやマスコミは彼の出自をおよそ知りながら熱烈に応援したのである。
在日の立場が大きく変わったのは、70年代末のインドシナ難民の受け入れが黒船効果をもたらし、また国際人権規約加入につながった。こうして「統合の時代」は始まったのである。公営住宅への入居、国民年金、児童手当の適用、さらには国民健康保険への加入が認められた。93年には永住者・特別永住者の指紋押捺制度の廃止が行われた。在日側ではアイデンティティを保証する最も身近な要素として「名前」を問題視した。80年~90年代、通称名(創氏改名の日本風の名前)にかえて、本名を宣言するものが増えた(もちろん、出自を隠したい、いじめなどの差別に遭いたくない
との考えで通称名を依然として使う者も多くいた)
※日本の同調圧力は極めて強い。日本人と違う名前だけでも学校や職場などでいじめや差別を受ける。多文化共生社会を目指しているはずなのにこれでは全く到達できそうもない。名前も含めて、違っていることが当たり前なのだという教育、環境を作る必要がある。
この時代、姜尚中が80年代に日本国籍取得について述べていたことを紹介する。彼は言う「在日の権利回復が進むほど日本人に同化しやすくなり、民族性がうすまる。よしんば日本国籍を得たとすれば、在日は琉球民族やアイヌと同等に扱われてしまう。」しかし、日本国籍取得者は減らなかった。「生きる上で有効なら日本国籍取得だって選択肢のひとつ」としてあっていいというのが在日の大方の考えであり、著者の考えでもあった。けれども、日本国籍を取得したものでも、「純粋な日本人」でないとの批判を受けるのである。
※姜さんは、2019年日本国籍を取得することもあるだろうと述べた。また在日としてのくびきから離れてもいいのではないかとも。若者にとって大事なのは「時代や世代という「設えもの」から離れ、自分なりの価値で生きること。この発言を変節と捉えるべきかどうか。
しかし、2002年小泉首相の訪朝の結果、金生日が日本人拉致を認めたことにより、それまでの融和ムードは消し飛んでしまった。今や時代が逆戻りするかのような事態となっていくのである。日本の未来は危ういと考えてしまうのである。
以上「在日韓国人になる」からほとんど引用してきたが、一つの見方に陥ることなく、幅広く在日問題を捉えていてとても参考になる。ちなみに林晟一の「晟」は金日成の2文字からなり、これは祖母がつけた名前だそうである。著者は当初「朝鮮籍」であったが、母親ともども「韓国籍」に変更した。
一つは、林晟一「移民国家ニッポン練習記 在日韓国人になる」と少し古いが中村一成「思想としての朝鮮籍」。二人とも在日三世で、日本生まれで日本育ちである。
中身に触れる前になぜ在日問題に関する本を読むことが多いのだが、単純には安田菜津紀(「国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に」「貴方のルーツを教えてください」)や今回読んだ林晟一のように若い世代の書いた本が出ていること(もちろん、これらの本を選書する県図書館の司書によって収蔵されている)、そしておじさんが戦後まもなくの生まれであり、在日について聞いたこと、学んだことがあり、人ごとではないと考えているからである。そして、日本の在留外国人数は322万人(23年6月時点)と増え続けている中で、その最初の大量の在留外国人となったのが在日朝鮮人であることから、過去の日本社会の在日問題について考えてみることが必要だと思うからでもある。
なぜ日本で在日が問題になるかというと、言うまでもなく1910年に朝鮮を併合し、植民地としたからである。さらに中国やアメリカなどと戦争する中でで労働力が足らなくなり、その植民地から大量動員したことにより、最大200万人もの在日が存在することとなった(労働力が足りないとういう状況は現在再び起きている。これから日本は韓国など人口が急激に減る国と外国人獲得競争をしなければならない。)戦後130万人ほどは帰国したが、残りはやむを得ず(日本が戦争に敗れ、主権を失った朝鮮にソ連の支援する共産勢力とアメリカの支援する反共勢力が生まれ、半島は大混乱していた。)日本を生活の場として選び日本に留まった。彼らは植民地化、創氏改名などにより日本人とされたのだが、戦争が終わると外国人とされた(1952年4月、在日は日本国籍や国民としての権利を正式に奪われた。)。
※植民地であったならば、在日に日本国籍か朝鮮・韓国籍を選ばせるのが、道義的に正しいと思われる。しかし、日本は彼らによる左翼的な反政府運動を恐れ、この措置を執った。
※※1950年以前は在日の国籍は全てが「朝鮮」で、それ以後その朝鮮を「韓国」とすることがだけが認められた。一方日本は北朝鮮と国交がなく、「北朝鮮籍」を認めていないので、朝鮮籍は「北朝鮮籍」を意味しない。「朝鮮籍」を維持することは、北朝鮮を支持する、または南北統一による「朝鮮」を実現したいと思っているからと考えられている。これについては中村一成の「思想としての朝鮮籍」に詳しい。
林は、戦後の在日史を、大まかに排除の時代(1945年~70年代)、統合の時代(70年代~90年代)、再排除の時代(2000年代~)に分ける。中村の本では、詩人の高史明、金石範など1940年~1950年代にかけて青年期を過ごした6人がインタビューに答えている。まさしく、排除の時代の生き証人であり、今や消えてしまったか消えつつある世代の人々である。日本が敗戦という「生き直し」の契機を捨て去り、米国に便乗しつつ、戦後補償のネグレクトに始まる「固有の利益」を実現する道を選んだ。それは政府の暴走ではなくて、社会全体がその破廉恥に順応した。彼らはそうした順応に抗し、共産党の運動に加わったり、民族運動、民族教育、文筆活動などを積極的に行ってきた。そうした生き様がいまだに「朝鮮籍」を選択させている。
※今在日の中で韓国籍なのは426,908人、一方朝鮮籍は27,214人(2020年) どちらも減っているのは、日本国籍を取得する在日がいるからであり、また日本人と結婚する在日が数多くいることもどちらの国政も増えない理由となっている。
排除の時代を象徴するような、「日本に住む朝鮮人をすべて半島へ送還したい」と吉田茂首相は49年のマッカーサー宛書簡であけすけに述べた。そして、日本政府は、旧植民地人に日本国籍を自発的に選択する権利を与えなかった。在日は外国人登録証明書の常時携帯、指紋押捺を求められ、さらには公務員になれないし、公営住宅への入居を認められない、生活保護を除く社会保障全般の適用除外。もちろん彼らは税金を払う必要があったし、BC級戦犯となった者は、日本人同様刑に服した。一方で軍人恩給は彼らには支給されない。
排除の時代に朝鮮半島出身であるにも関わらず、日本人のヒーロー(おじさんにとってもヒーローだった)となったのが、力道山であった。相撲界に入門し、関脇まで昇進したにも関わらず出自のコンプレックスから廃業、プロレスのスター選手となった。彼は日本国籍を取ったが、ファンやマスコミは彼の出自をおよそ知りながら熱烈に応援したのである。
在日の立場が大きく変わったのは、70年代末のインドシナ難民の受け入れが黒船効果をもたらし、また国際人権規約加入につながった。こうして「統合の時代」は始まったのである。公営住宅への入居、国民年金、児童手当の適用、さらには国民健康保険への加入が認められた。93年には永住者・特別永住者の指紋押捺制度の廃止が行われた。在日側ではアイデンティティを保証する最も身近な要素として「名前」を問題視した。80年~90年代、通称名(創氏改名の日本風の名前)にかえて、本名を宣言するものが増えた(もちろん、出自を隠したい、いじめなどの差別に遭いたくない
との考えで通称名を依然として使う者も多くいた)
※日本の同調圧力は極めて強い。日本人と違う名前だけでも学校や職場などでいじめや差別を受ける。多文化共生社会を目指しているはずなのにこれでは全く到達できそうもない。名前も含めて、違っていることが当たり前なのだという教育、環境を作る必要がある。
この時代、姜尚中が80年代に日本国籍取得について述べていたことを紹介する。彼は言う「在日の権利回復が進むほど日本人に同化しやすくなり、民族性がうすまる。よしんば日本国籍を得たとすれば、在日は琉球民族やアイヌと同等に扱われてしまう。」しかし、日本国籍取得者は減らなかった。「生きる上で有効なら日本国籍取得だって選択肢のひとつ」としてあっていいというのが在日の大方の考えであり、著者の考えでもあった。けれども、日本国籍を取得したものでも、「純粋な日本人」でないとの批判を受けるのである。
※姜さんは、2019年日本国籍を取得することもあるだろうと述べた。また在日としてのくびきから離れてもいいのではないかとも。若者にとって大事なのは「時代や世代という「設えもの」から離れ、自分なりの価値で生きること。この発言を変節と捉えるべきかどうか。
しかし、2002年小泉首相の訪朝の結果、金生日が日本人拉致を認めたことにより、それまでの融和ムードは消し飛んでしまった。今や時代が逆戻りするかのような事態となっていくのである。日本の未来は危ういと考えてしまうのである。
以上「在日韓国人になる」からほとんど引用してきたが、一つの見方に陥ることなく、幅広く在日問題を捉えていてとても参考になる。ちなみに林晟一の「晟」は金日成の2文字からなり、これは祖母がつけた名前だそうである。著者は当初「朝鮮籍」であったが、母親ともども「韓国籍」に変更した。