城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

国籍とは何か・在日問題について 24.1.21

2024-01-22 20:10:03 | 面白い本はないか
 昨年の9月17日付けで「国籍とは何か」を書いたが、この続編になるかもしれない「在日韓国朝鮮問題」について二つの本を紹介する。
 一つは、林晟一「移民国家ニッポン練習記 在日韓国人になる」と少し古いが中村一成「思想としての朝鮮籍」。二人とも在日三世で、日本生まれで日本育ちである。



 中身に触れる前になぜ在日問題に関する本を読むことが多いのだが、単純には安田菜津紀(「国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に」「貴方のルーツを教えてください」)や今回読んだ林晟一のように若い世代の書いた本が出ていること(もちろん、これらの本を選書する県図書館の司書によって収蔵されている)、そしておじさんが戦後まもなくの生まれであり、在日について聞いたこと、学んだことがあり、人ごとではないと考えているからである。そして、日本の在留外国人数は322万人(23年6月時点)と増え続けている中で、その最初の大量の在留外国人となったのが在日朝鮮人であることから、過去の日本社会の在日問題について考えてみることが必要だと思うからでもある。

 なぜ日本で在日が問題になるかというと、言うまでもなく1910年に朝鮮を併合し、植民地としたからである。さらに中国やアメリカなどと戦争する中でで労働力が足らなくなり、その植民地から大量動員したことにより、最大200万人もの在日が存在することとなった(労働力が足りないとういう状況は現在再び起きている。これから日本は韓国など人口が急激に減る国と外国人獲得競争をしなければならない。)戦後130万人ほどは帰国したが、残りはやむを得ず(日本が戦争に敗れ、主権を失った朝鮮にソ連の支援する共産勢力とアメリカの支援する反共勢力が生まれ、半島は大混乱していた。)日本を生活の場として選び日本に留まった。彼らは植民地化、創氏改名などにより日本人とされたのだが、戦争が終わると外国人とされた(1952年4月、在日は日本国籍や国民としての権利を正式に奪われた。)。

 ※植民地であったならば、在日に日本国籍か朝鮮・韓国籍を選ばせるのが、道義的に正しいと思われる。しかし、日本は彼らによる左翼的な反政府運動を恐れ、この措置を執った。

 ※※1950年以前は在日の国籍は全てが「朝鮮」で、それ以後その朝鮮を「韓国」とすることがだけが認められた。一方日本は北朝鮮と国交がなく、「北朝鮮籍」を認めていないので、朝鮮籍は「北朝鮮籍」を意味しない。「朝鮮籍」を維持することは、北朝鮮を支持する、または南北統一による「朝鮮」を実現したいと思っているからと考えられている。これについては中村一成の「思想としての朝鮮籍」に詳しい。


 林は、戦後の在日史を、大まかに排除の時代(1945年~70年代)、統合の時代(70年代~90年代)、再排除の時代(2000年代~)に分ける。中村の本では、詩人の高史明、金石範など1940年~1950年代にかけて青年期を過ごした6人がインタビューに答えている。まさしく、排除の時代の生き証人であり、今や消えてしまったか消えつつある世代の人々である。日本が敗戦という「生き直し」の契機を捨て去り、米国に便乗しつつ、戦後補償のネグレクトに始まる「固有の利益」を実現する道を選んだ。それは政府の暴走ではなくて、社会全体がその破廉恥に順応した。彼らはそうした順応に抗し、共産党の運動に加わったり、民族運動、民族教育、文筆活動などを積極的に行ってきた。そうした生き様がいまだに「朝鮮籍」を選択させている。

 ※今在日の中で韓国籍なのは426,908人、一方朝鮮籍は27,214人(2020年) どちらも減っているのは、日本国籍を取得する在日がいるからであり、また日本人と結婚する在日が数多くいることもどちらの国政も増えない理由となっている。

 排除の時代を象徴するような、「日本に住む朝鮮人をすべて半島へ送還したい」と吉田茂首相は49年のマッカーサー宛書簡であけすけに述べた。そして、日本政府は、旧植民地人に日本国籍を自発的に選択する権利を与えなかった。在日は外国人登録証明書の常時携帯、指紋押捺を求められ、さらには公務員になれないし、公営住宅への入居を認められない、生活保護を除く社会保障全般の適用除外。もちろん彼らは税金を払う必要があったし、BC級戦犯となった者は、日本人同様刑に服した。一方で軍人恩給は彼らには支給されない。

 排除の時代に朝鮮半島出身であるにも関わらず、日本人のヒーロー(おじさんにとってもヒーローだった)となったのが、力道山であった。相撲界に入門し、関脇まで昇進したにも関わらず出自のコンプレックスから廃業、プロレスのスター選手となった。彼は日本国籍を取ったが、ファンやマスコミは彼の出自をおよそ知りながら熱烈に応援したのである。

 在日の立場が大きく変わったのは、70年代末のインドシナ難民の受け入れが黒船効果をもたらし、また国際人権規約加入につながった。こうして「統合の時代」は始まったのである。公営住宅への入居、国民年金、児童手当の適用、さらには国民健康保険への加入が認められた。93年には永住者・特別永住者の指紋押捺制度の廃止が行われた。在日側ではアイデンティティを保証する最も身近な要素として「名前」を問題視した。80年~90年代、通称名(創氏改名の日本風の名前)にかえて、本名を宣言するものが増えた(もちろん、出自を隠したい、いじめなどの差別に遭いたくない
との考えで通称名を依然として使う者も多くいた)

 ※日本の同調圧力は極めて強い。日本人と違う名前だけでも学校や職場などでいじめや差別を受ける。多文化共生社会を目指しているはずなのにこれでは全く到達できそうもない。名前も含めて、違っていることが当たり前なのだという教育、環境を作る必要がある。

 この時代、姜尚中が80年代に日本国籍取得について述べていたことを紹介する。彼は言う「在日の権利回復が進むほど日本人に同化しやすくなり、民族性がうすまる。よしんば日本国籍を得たとすれば、在日は琉球民族やアイヌと同等に扱われてしまう。」しかし、日本国籍取得者は減らなかった。「生きる上で有効なら日本国籍取得だって選択肢のひとつ」としてあっていいというのが在日の大方の考えであり、著者の考えでもあった。けれども、日本国籍を取得したものでも、「純粋な日本人」でないとの批判を受けるのである。

 ※姜さんは、2019年日本国籍を取得することもあるだろうと述べた。また在日としてのくびきから離れてもいいのではないかとも。若者にとって大事なのは「時代や世代という「設えもの」から離れ、自分なりの価値で生きること。この発言を変節と捉えるべきかどうか。

 しかし、2002年小泉首相の訪朝の結果、金生日が日本人拉致を認めたことにより、それまでの融和ムードは消し飛んでしまった。今や時代が逆戻りするかのような事態となっていくのである。日本の未来は危ういと考えてしまうのである。
 
 以上「在日韓国人になる」からほとんど引用してきたが、一つの見方に陥ることなく、幅広く在日問題を捉えていてとても参考になる。ちなみに林晟一の「晟」は金日成の2文字からなり、これは祖母がつけた名前だそうである。著者は当初「朝鮮籍」であったが、母親ともども「韓国籍」に変更した。

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バラとクリスマスローズのミニ花壇・バラ剪定開始 24.1.19

2024-01-19 19:16:41 | バラ、クレマチス等
 庭の一角でヒメリュウキンカが咲き出した。花が少ない時だからその黄色がひときわ目立つ。

 暑い時期は葉をすっかり落とすが、地下茎が力強く伸びている

 いよいよバラの剪定をする時期となった。今年は暑さが長く続き、さらに暖冬のため、どのバラも枝を大きく伸ばしている。背の高いものは、2mを超え、3mにも達している。

 古い方の花壇 これから少しづつ剪定していく 細い枝は既に取り除いたので、混み合ったところを間引きする
 昨年出たシュート(新しい枝)を中心にして、古い枝(花が少ない)の一部(又は全部)を取り除く
どれくらいの高さまで切るかは、一概にいうのは難しいが、二分の一か三分の一くらいまでということになる


 新しい方の花壇 ここも上と同様


 鉢植えのバラのうち、ガートルード・ジェキル(イングリッシュ)とエスカペド(フロリパンダ)を新しく作ったミニ花壇に移す

 二つのバラの剪定

 鉢から株を抜く バラの根の先端部分を少し切る

 植付ける 水をやれば作業終了


 昨年作ったミニ花壇

 もし、地植えできる場所があるならば、断然地植えをお薦めする。株は大きくなり、花が沢山咲く。また、ほとんど水やりに注意する必要がなくなる。ただし、露天となるため、黒点病にかかる怖れは強くなる。

 庭ではクリスマスローズのつぼみが株基にたくさん出てきているが、花が咲いた株はまだない。
 鉢植えのクリスマスローズの種(意図的に集めたものや自然に地面に落ちたものが育った)を庭の一角にばらまき、数年後3箇所でそれが立派に育った。それを掘り返し、一箇所に集めた。

 色は黄色と深い紫であるはず 手前側に庭で黄色、紫以外の株があれば植えたい

 ここにも種をまいた そのため色が違う株がある ここにはクレマチス2株、バラ2株と混植されている
 柵を越えて、小クチナシの方にも侵入している
 ひよっとすると、違う株同士で新たな色の株が出てきている可能性もある(自然が園芸家?)

 この剪定が済むと、硫黄石灰剤の散布と施肥(2月上旬元肥)を行う


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雨、雪の池田山 24.1.13

2024-01-13 19:21:51 | 山登り
 今日の揖斐川町、池田町の天気はまさしく猫の目のように変わるという慣用句そのものであった。朝7時半頃家を出るいた。ときは雨が降っていた。中止にすべきだったのかという重いがめぐる。集合場所の霞間ヶ渓駐車場に着いたとき既に、山とものEさん、Mさんはいた。雨は少しだけ降っていた。それでも二人に対して、思わず(こんな天気の日に実施して)済みませんという言葉が出た。

 少なくとも木曜日あたりから、両町の天気(ウェザーニューズ、気象協会)は雨で普通なら中止にするところだった。しかし、テンクラで見る池田山の山頂の天気は雪か曇りだった。その中で気にかかったのが、風が十数メートルという予報だった。以前、霊仙山でテンクラでCのところ強行して、山頂付近で強い風にあったことがあった。ただし、霊仙は遮るものがないのに対し、池田山は樹が一杯あるので、大丈夫であろうと判断した。それでも朝の雨はかなりショッキングだった。


 全員、雨具を着て、登山口を出発。雨は止んでいたので、途中で雨具の上を脱いだ。着ていると内側から汗を一杯かき、それは汗冷えとなり、行動の妨げとなる。林道に出会う地点の少し前でやっと雪が現れた。

 8時13分 登山口

 9時36分 やっと雪が現れる

 9時49分 東屋手前

 東屋到着

 雪はかなり少ない

 10時5分 新しい登山道ができていた 以前の登山道は少しわかりにくいところにあった
 でもわざわざ作らなければならないという程のことではない 前の道の方が断然登り易い

 雪はすこしづつ多くなってきた

 10時30分 パラボラアンテナ 3基あるものの中間地点にあるもの

 峠の料金所手前で見たことがない石像が鎮座していた

 七福神? 誰が作ったのであろうか 通行料200円と関係あるのか

 11時4分 私有地を抜ける

 11時16分 山頂着

 山頂は風が吹いており、気温も低い。すぐに来た道を戻ることにし、途中の風のない東屋でお昼を食べた。おじさんはおにぎりを美味しく食べるためにカイロを利用している。これで少しだけれども暖かいおにぎりを食べることができる。コンビニのおにぎりは寒くないところであれば、比較的おいしく食べれる。ところが、寒いところでは米粒がバラバラで美味しくない。我家では基本的に家内が朝早くおにぎりを作ってくれるので、そのようなことはない。

 最後の林道合流地点からの下りは実に単調でこれがこのコースの嫌いなところである(Eさんも同意)。下りの途中から降り出した雨、家に帰れば青空が見え、またその後雪が降り出した。まさしく猫の目のようである。今日会った登山者は途中あった単独者のみ、彼曰く雪が沢山あったので引き返してきたと。我々は雪を求めて登ってきたのだが。

コースタイム 霞間ヶ渓登山口8時20分→東屋9時49分→山頂11時16分→東屋で昼食→登山口13時35分

 

 
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つるバラの剪定と誘引 24.1.11

2024-01-11 19:20:53 | バラ、クレマチス等
 1月になっても一部のバラは咲き続けている。下旬からはいよいよ剪定の作業を始めるので、それまでのお楽しみとなる。この中でつるバラのみは剪定と誘引を12月と1月に行う。正直、この作業は好きでない。なぜかというと誘引に紐を使うのだが、手袋をはめたままでの作業がしづらいので、素手で行う。そうすると指はとげの餌食となり、傷まるけということになる。

◯咲いているバラ
 
  レディ・シャーロット(イングリッシュ)
 
  セシルブルンナー(ポリアンサ)
 
  クロードモネ(フレンチ)
 
  レイニーブルー(クライミング) つるバラであるが最大1.5m程度なので普通の管理(ただし、剪定は先端と混み合ったところ)

◯つるバラの剪定と誘引のポイント
 ・剪定は古い枝、細い枝中心に行う
 ・先端30cmくらいを切る、短い枝は切る。葉は全て取り除く。
 ・誘引は昨年新しく伸びてきた太いシュートを中心に考える。細いシュートは切る
 ・できるだけ水平方向になるように行う(花が沢山咲く)

 つるバラの剪定前と剪定後

 このアーチには白いのと購入して20年のアンクルウォルターがある 
 白いのはシュートを沢山出し、多すぎるので整理した
 問題はアンクルウォルターで昨年シュートがほとんど出ていない(結果古い枝ばかりが残る)

 誘引したが、白い方が混みすぎている


 ピェールドゥロンサール これも沢山シュートが出ている

 剪定、誘引後 


 昨年春大野町のバラ祭りで購入したミニのクライミング

 剪定、誘引後 少し切りすぎた


 フレンチローズの半ツル性のペッシュボンボン 最初はシュラブ(株立ち)として管理していたが、枝が沢山出ずに花も咲かないので、つるバラとして管理している
 結果花は良く咲くようになった

 剪定、誘引後(剪定前とは反対側となっている)


 ピエールロンサールの反対側の裕 これは2代目で前のは13年目に枯れた これは2年目「日本ばら園」は新苗なので小さい)

 剪定、誘引後

 残念ながらきれいに誘引出来ていない。
 次の作業は下旬から、残りのバラの剪定、全てのバラの施肥(元肥)と消毒を行う。
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新雪の貝月山 24.1.9

2024-01-09 17:26:51 | 山登り
 毎冬一度は家から近い貝月山(1234m)を訪れる。年末に3人(8日Yさんから参加表明があり4名となった)で今日登ることを計画したが、クリスマスの前に降ってからは、ほとんど降っていなかった。幸いなことに7日から降雪があり、新雪が期待できそうだった。

 揖斐を7時に出発し、貝月ゲレンデに7時30分過ぎに到着。ところが、駐車場に入れない。入口の案内を見ると8時過ぎに明けるとあった。40分頃一台の軽自動車が到着し、女性の係員が出てきた。係員によると本日は休業日で駐車場には入れないとのこと。昨年までこのようなことはなかったので、以後注意する必要がある。

 駐車場の手前の案内

 入れないので、手前の空地に車を停めて、出発。幸いゲレンデは雪に覆われていたので、おじさんとYさんはスノーシュー、Iさんはスノーシューだが随分軽量なもの、Oさんは壺足(もちろんワカンを持参)で出発。
 8時17分 ゲレンデ

 昨日が休日であり、たくさんの登山者が登っていたらしく、ゲレンデ(20~30cmの新雪)、登山道とも雪は踏まれており、壺足でも問題ないほどであった。


 8時33分 おじさんが先頭だったが、スノーシューの調整をしていたので、遅れて出発

 8時41分 ゲレンデ最上部から御嶽


 9時15分 避難小屋への分岐

 9時39分 雪の道

 Iさん撮影

 通常の冬だと小貝月が近づくと夏道(登山道)を外れ、尾根を直登するが、雪が少ないため、夏道をそのまま登っていく。

 10時36分 小貝月に続く尾根 右の方に夏道があり、トレースはここを登っている

 11時16分 小貝月手前から伊吹山

 青空が途中まで見えていたが、この頃は曇り空に変わっていた。陽がないので立ち止まっているとすぐに寒くなる。

 11時45分 貝月山山頂着 積雪は50cmくらい

 展望台 お昼はこの下で食べる

 山頂直下から見る小貝月山(左側)

 雪が降ってから一日しか経過していない、前日に登山者がトレースを作ってくれたことにより、お昼前に登頂することができた。ちなみにおじさんの冬の登頂回数は7回、Yさんは?、OさんとIさんは初めて。

コースタイム ゲレンデ8時20分→分岐9時15分→山頂11時45分~12時20分→ゲレンデ14時22分
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