城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

石牟礼道子と渡辺京二 21.3.30

2021-03-30 18:48:35 | 面白い本はないか
 本当はもっと素敵なタイトルをつけたかったのだが、文才のないおじさんには無理だった。石牟礼道子は「苦海浄土ーわが水俣病」、渡辺京二は「逝き世の面影」が最も知られた代表作である。そして二人は、お互いに連れ合いを持ちながらその存在を尊重し、ある意味人生の伴走者となった。石牟礼道子の世界は感性乏しきおじさんにはなかなかわからないが、この二人の道行きは「魂の邂逅ー石牟礼道子と渡辺京二」の著者米本京二が「曾根崎心中」の道行きに例えたほど不思議な男女の世界であると思ったので、非力を承知で書いている。さて、「苦海浄土」であるが、発表は渡辺京二の「熊本風土記」に連載され、1969年に刊行された。

 今が盛りの我が家のミツバツツジ

 まずは、水俣病について触れておこう。ご承知のように当時の日本窒素肥料水俣工場から排出された有機水銀によって、水俣湾一帯が汚染され、そこで獲れる魚を多食した漁民そして家族を中心に中枢神経が水銀中毒を起し、認定患者だけでも2000人、被害を受けた人1万5千人という四大公害病(四日市ぜんそく、神岡イタイイタイ病、新潟水俣病)の一つである。この水俣病が悲惨なのは、1956年に水俣病が公式発見された後も、同工場からは毒水が1968年まで排出され続けていること、そして同工場は被害を受けていない水俣市民にはむしろ雇用や利益をもたらしてくれる場(1907年に野口遵等により日本カーバイト工場創立、翌年日本窒素肥料水俣工場となる。1931年には昭和天皇が同工場を視察。1932年にアセトアルデヒドの製造が始まり、有機水銀が排出され始めた。1953年頃から水俣湾周辺漁村で多数の猫が死ぬ。原因不明の中枢神経疾患散発、そして同年水俣病第一号患者が発症。)でもあったことから、漁民は二重の苦しみに直面することとなる。

 スイセン

 苦海浄土は、この水俣病患者の日常を豊穣な言葉で描く。最初にこの本を読んだのは2003年、どこまで理解出来たかはわからない。そして日曜日と月曜日読み直した。患者の話す独特な熊本弁そして詳細な著述、意味が分からないところも沢山ある。少し本から引用する。「水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚(せき)夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后を一つの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そして加えられつつある近代産業の所業はどのような人格として捉えられねばならないか(難しいですね!)。」もう一つ引用する。「あねさん、わしゃ酔いくろうてしまいやしたばい。久しぶりに焼酎の甘うござした。よか気持ちになった。わしゃお上から生活保護ばいただきますばって、わしゃまだ気張って沖に出てゆくとでござんすけん、我が働いた銭で買うとでござんすけん。〔略)なあ、あねえさん。水俣病は、びんぼ漁師がなる。つまりはその日の米も食いきらん、栄養失調のものどもがなると、世間でいうて、わしゃほんに肩身の狭うござす。(この老人は長男とその子どもの一人が水俣病。この老人夫婦がこの家庭を維持している。)」

 ムスカリと随分葉が出てきたバラ

 この苦海浄土の解説を渡辺京二が「石牟礼道子の世界」と題して書いている。そこに書いてあるのは「この本は石牟礼道子の私小説。私の確かめたところでは、石牟礼氏この作品を書くために患者の家にしげしげと通うことなどしていない。彼女が自分が見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。彼女はこう言った「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの。」」石牟礼道子は1927年に生まれ、16歳で代用教員になり、熊本市の短歌結社に参加。47年に代用教員を退職し、結婚、翌年には長男を産んだ。特異なのは、結婚直後に3度目の自殺未遂、短歌結社の仲間に一緒に死んでくれるよう依頼された(その仲間は自死した)。62年頃渡辺京二と出会い、彼が刊行した熊本風土記に苦海浄土を連載した。そして、二人は水俣病市民会議に加わり、患者支援を行っていく。当時会社から示された慰謝料は、「大人のいのち10万円、こどものいのち3万円、死者のいのち30万円」で、道子はこれをお念仏のように唱え続けた。

 渡辺によると道子は「生まれてきて、いやっと泣いている。この世はいやっ、人間はいやっと泣いている。生まれたときからこの世とうまくいっていない。」道子はそれでも2018年まで生きる。最後はパーキンソン病にも悩まされたが、その道子を支えたのは渡辺である。渡辺自身は1958年に結婚し、子どももある。渡辺は1962年から道子の編集人として、あるいは秘書として最後まで仕える。家族特に連れ合いははこの二人をみてどのように感じていたのだろうか。「魂の邂逅」に渡辺の娘の話が出てくる。渡辺が妻を深く愛していたことがわかるが、既に亡くなった妻の話を聞くことはかなわない。

 渡辺の「逝きし世の面影」を紹介できると良いのだが、本文だけでも600ページもあるので、中味を紹介することはできない。ブックレビューなどでその内容を垣間見ることはできる。ここでは2014年に出された「無名の人生」から紹介する。「「苦海浄土」の著者で詩人の石牟礼道子さんの文学の基本には、小さな女の子がひとりぼっちで世界に放り出されている泣きじゃくっているような、そういう姿が原形としてあります。〔略)考えてみれば、人間はみな、本来そういう存在です。」「〔渡辺自身について)書いて有名になりたいのではなく、ただただ面白いものが書きたい。本当ならペンネームで作品を発表して、自分の正体をしられず、写真を撮られることもなく、というのがいちばんなのでしょうが、行きがかり上こうなってしまった。食ってゆくには何か生業を待たなくてはならず、それがたまたま私の場合は文章を書くということになったのです。」

 渡辺が道子のたぐいまれな才能を見つけ、自分の家族に多大な迷惑をかけながら、その伴走者としての役割を見事に果たした。「魂の邂逅」には、46歳の道子と43歳の渡辺が道子はほほえみ、渡辺は少しだけ微笑を浮かべている写真が冒頭に出てくる。どう見ても恋人同士としか思えない。男女の魂がふれあうとは一体全体どういうことなのであろうか。凡人には理解不能ということだろうか。






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華厳寺の桜と妙法ヶ岳 21.3.27

2021-03-27 19:38:27 | 山登り
 きつい山を登る計画をたてた時はいまだに前夜などは結構なストレスがかかる。果たして計画者自身が登れるだろうかというストレスである。一方で、2時間程度で登れるような山では気も楽である。さて、今日の華厳寺の桜と妙法ヶ岳は実を言うと、Sさんの計画(もともとは4月4日に行くと言っていた。)をちゃっかりいただき、これに3月4日に伊吹山で思わぬ出会いをした名古屋の山とも(4年前の瑞浪の屏風山が最後であった)のOさんを加えて、成立したものである。妙法は2年前、まだ大垣山協にいた時、華厳寺の桜が満開の時の登って以来であった(2019年4月7日付けブログ大垣市民登山・妙法ヶ岳)。

 駐車場(無料であった。これもコロナの影響?)に車を停め、歩き出した。駐車場ではテントの設営(屋台のかわりか?)が行われていたが、時間も早く参道は人もほとんどいなかった。華厳寺初めてのOさんに道々説明をしながら、仁王門をくぐった。本堂への急な階段の前にある手洗い場には水汲み用のひしゃくがおいてなかった(今年の正月は恒例としている谷汲山参りをしなかったので)。本堂に登り、線香の煙を体に巻き付けた後、お賽銭を投じた。本堂の舞台から妙法らしき峰が見えていた。本堂から満願堂に進み、そこから木の根っこが我が物顔に張り出した道を登った。林道に出、さらに東海自然歩道と合流するといよいよ沢沿いの道となる(おそらく4月も半ば過ぎるとヒルが出そうなところである)。小さな滝を見ながら登っていくと林道にぶつかる。橋を渡ると、まもなく奥の院に到着する。ここまで駐車場から1時間、ここから山頂まではやく300mの標高差だから1時間くらいかかる。奥の院のすぐ先が門前を中心とした谷汲が唯一見えるところとなっている。このあと比較的整備された植林の中、延々と階段が続く。そして稜線に達すると、一山越えれば山頂(666.8m)となる。


 参道を歩き出す 8:29 桜は5分から7分咲き

 仁王門を過ぎた

 本堂
 
 本堂から妙法ヶ岳方面

 満願堂の狸たち

 小さな滝 9:08

 こうした小さなお堂が32本堂まで続く これは第26番

 小橋を渡る

 奥の院 9:25

 植林帯の中 階段の登りが続く 9:59

 山頂に到着 10:24 

 本堂を裏側から撮る さてこの屋根は瓦葺きか? おそらく銅板葺き(緑青らしきのが見えたので)

 その近くのしだれ桜

 仁王門を額縁代わりに桜

 名残惜しげに仁王門前の桜 人はそれなりに出てきていた 誰もがマスクをしていたのがおじさんには特に印象深かった

 さて、今回は女性ふたりとおじさんの組み合わせだった。ふたりは同年だったことがわかったが、いずれにしても女性二人となると話もはずむようだ。Oさんとは何回も一緒しているが、ここまで話を聞いたことはなかった。意外とOさんもおしゃべりであることがわかった。そして、面白かったのは、Oさんがお姉さんたちがいる関西に出かける時に、いつも彼女たちから言われるのが、「もう少し格好なんとかならないか」だった。Oさんに言わせれば、これで名古屋の駅前では十分通用する(すなわち名古屋のファッションセンスは「いなか」だということらしい)。ではその「いなか」の中のさらにいなかすなわちこの辺は一体全体どういうことになるのであろうか。言うなればデパートのファッションの中に野良着やユニクロの服を着ていることになるのであろうか。

 帰りにおじさんの畑により、菜花を二人に差し上げた。Oさんとは次回小津権現山に登ることにしている。


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続古地図・絵図から見る山々 21.3.23

2021-03-23 19:03:30 | 山登り
 前回のブログー古地図・絵図から見る山々ーについて、山とものEさんすなわち奥揖斐山荘のオーナーから下記のコメントをいただいた。

「雷冥岳→雷倉=本巣市観光協会発行の本巣の山に「倉・冥・嵒は崖や露岩を表します。(雷倉の)中間部にある露岩帯のことでしょうか?」と書いてあります。また美濃国大絵図を虫眼鏡でみると西杉原と杉原の間にカタカナで「ツリハシ」とあります(藤橋には記入ナシ)地図を見るのは飽きないですね」

 コメント有り難うございました。そこでEさんが虫眼鏡で発見した」「ツリハシ」を「美濃国大絵図」で確かめた。

 確かに杉原と西杉原の間に「ツリハシ」とあるのを確認した

 問題は、このツリハシが、下記の「濃州横山川藤橋図」と同じものであるかどうかである。この図の解説文では、「揖斐川の上流部、旧池田郡横山村(現揖斐川町藤橋)近傍の揖斐川を横山川と称していた。そこにかけられた釣橋の図である。江戸期の「新撰美濃志」の横山村の項に、「・・・藤橋は村の東、杭瀬川の上流にかけ渡せり。〔中略)藤かずらにて両岸にかけ釣りたれば駿河の富士川の藤橋のごとく危ふき事限りなし。東横山村の方へ往来する人常にわたりて牛馬はわたりがたし・・・」と書いてある。横山と杉原は同じかつて藤橋村だったが、かなり距離的に離れている。だから、杉原の「ツリハシ」とこの「藤橋図」は違うものだと考えることができる。

 〔再掲)
 現況を見ると、横山村付近は両岸がせまっており、横山ダムが設置されているように断崖絶壁である。したがって、東横山と西横山(かつて役場があった)との間に釣橋があったとしても不思議ではない。先ほどの「美濃国大絵図」で目を凝らして見ると横山村付近は橋ともとれる様な梯子のような図が書かれている。これを釣橋だと考えるのは少し無理がある。従って、この疑問は今のところ解決できないと思う。


 加えて、合併前の村名はなぜ「藤橋村」だったのであろうか(冠峠に立つと「徳山村」→「藤橋村」→「揖斐川町」と表示があるのに気がつくだろう)。グーグルで「藤橋」と検索すると揖斐川町の藤橋以外では名前の「藤橋」の全国分布が出てくる。岐阜県には藤橋姓が約300人、そのうち200人が瑞穂市とあった。かつて福島県と宮城県の県境付近に「藤橋村」というのがあったようだ。昔から使われた「横山村」を棄てて(地域の地名は相変わらず「横山」である)、昔あった釣橋にかけて「藤橋」と名付けたのか。様々な疑問が湧いてくる。そしてこの横山にはソ連抑留問題、現地でなくなった旧日本兵慰霊等に永年取り組んできた横山周導さんがおられる。忘れてはいけない人である。


 ここからは昔の揖斐川に沿った交通事情についてである。今や揖斐川の市街を過ぎて、山に入るとトンネルの連続で昔の道路事情を知ることは難しい。市街から山に進むと、最初の関門が揖斐峡沿いの細い道、乙原を過ぎると崖沿いの狭い道と難所が延々と続いている。おじさんは大学生の時に横山ダムで2年間夏と春事務のバイトをしていた。市街の事務所からマイクロバスに乗り通ったのでよく覚えている(当時のアルバイトの日給は800円程度、やっと民宿に一泊できる金額だった)。皆さんは飛騨川バス転落事故を覚えているだろうか。昭和43年〔1968年)8月18日に起こり104名(うち9名の遺体が未回収)の犠牲者を出した。揖斐川でも久瀬村で転落事故が昭和52年に起こり、4名が亡くなった。少し残念に思っているのは、徳山村に一度しか行かなかったことである。この時は親父が運転する車で近所の人たちと一緒に本郷の旅館兼食堂で食事をし、冠峠まで登ったと思う。この点、Eさんはこの徳山村に仕事のため住んでいたこともあるくらいだから、とても詳しい(「奥揖斐山荘」で紹介されている)。

 昔のことは苦いことも含め懐かしいと思うようになったことは歳を十分重ねたということなのだろう。
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古地図・絵図から見る山々 21.3.22

2021-03-22 04:28:20 | 山登り
 山でお世話になるのは、昔だと5万分の一の地形図、その後整備された2万5千分の一、さらに山頂から遠くの山を見るときに必要なのは20万分の一、中には自分の登った山に赤丸をつけることに使う人もみえるだろう。日本の地図は今だと国土地理院、戦前は陸地測量部というところが作っていた。その測量のために各地に三角点が作られたのは、「剱岳点の記」などからわかるだろう。江戸時代に初めて実測で地図作成を行ったのは有名な伊能忠敬で、「大日本沿海輿地全図(大図69枚、中図3枚、小図1枚)」を1800年から16年かけて作った。この頃、日本の周辺の海には西洋列強の船が来襲していたし、密かに海図を作っていた例もあり、こうしたことに危機感を抱いていた幕府の支援のもとで作られた。

 これから紹介する古地図や絵図は上記の実測に基づく地図とは異なるものだが、木版印刷によりかなりの枚数がすられていたことがわかっている。古地図のコレクションは岐阜県図書館が多くを所蔵している。山とものEさんは揖斐川図書館でその出張展示会を見たと言っていた。では、なぜ庶民がこのような古地図・絵図を求めたのであろうか。お伊勢参りなど名所旧跡などを旅することが随分盛んになったことがあげられるだろう。当然当時の旅は歩きであるから、日数もかかり、宿にも泊まる必要があるから詳細な図が必要となる。地図にはたくさんの種類があって、名所旧跡図、城下町絵図、道中図、巡礼図、国絵図などと呼ばれる。その中の国絵図は、江戸幕府が作成を命じた国絵図(官撰国絵図)そのものでなく、一般に売り出すために、許可を得て編集しなおしたものである。この絵図からは当時の街道や沿道の町や村、名所旧跡、風景などがわかり、見るものを楽しませてくれる。(以上岐阜県図書館が発行している「国絵図」から引用)

 今日は、その中から名山と我が揖斐が描かれたものを紹介する。

 有名な「江戸名所絵〔1803年)」で江戸の町の向こうに富士山が大きく見える

 「信濃国筑摩郡木曽御嶽山全図」御嶽山は山岳信仰の山

 「官許飛騨絵図」 江戸時代は幕府直轄領 明治 飛騨県〔1868年)→高山県(1868年)→筑摩県(1871年)→岐阜県(1876年)

 上の飛騨絵図の拡大 右上に乗鞍があり、北アルプスのおなじみの山々が並んでいる


 「美濃国郡縣人跡路程図説〔1825年)」きれいな図である 左上に「夜叉ヶ池」が描かれている

 そのうちの揖斐の部分を拡大した 今も使われる地名が見られる

 揖斐川と根尾川沿いのまち、むら 「小津」の左が権現山=小津権現山、雷冥岳=雷倉(?)花房山らしき山がない?

 「濃州横山川藤橋図」かつては今の藤橋付近にこんな吊橋がかかっていたのだろうか。場所は違うが久瀬には「恋の吊橋」ならある


 「美濃国大絵図〔1834年)」

 上の図の拡大 冠山と徳山周辺 門入の下に蘇茂岐山=蕎麦粒山

 同上 三山とあるのは能郷白山の前山、能郷白山、磯倉という説が有力

☆以上の写真は全て岐阜県図書館が所有する古地図・絵図から引用しました。
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庭の花ほか 21.3.21

2021-03-21 13:18:06 | バラ、クレマチス等
 昨日は彼岸の中日だったので、お墓参りに出かけた。2月から咲き続けている梅に混じって、桜の花も咲き出した。昨年と比べると一週間以上早い。この冬雪は結構降ったが、気温は例年より高いということだろう。



 ここの桜は昨年は4月1日頃満開だった


 スイセンとクリスマスローズ

 クリスマスローズ

 同じ

 コブシがちらほら咲き始めている

 さてこれはなんでしょう?               イチゴ

 バラがこれから勢いよく成長

 午後畑にスナップエンドウの手を作りに出かけた。

 まずは、不織布を外した 残念なことに10本程度が枯れていた なぜ枯れるのか原因がわからない
 残ったのは大きく成長し、一部花も付けている 追肥の時期だ

 この手を作るのに3時間も費やした 枯れたところはコメリで買って補植した
 明日倒れている株を網にもたれるようにする
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