城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

24年振り返り・花壇の花 24.12.30

2024-12-30 18:59:16 | バラ、クレマチス等
 振り返りの最後に花壇の花をとりあげる。どんなブログを書いてきたか。

①「つるバラの剪定と誘引1.11」
  つるバラの剪定・誘引は12月か1月に行う。年明けに4株の剪定・誘引を行う予定
②「バラとクリスマスローズのミニ花壇・バラ剪定開始 1.19」
③「バラの元肥 2.5」
  1月下旬から2月上旬にかけて剪定し、元肥(有機肥料)、堆肥(馬の堆肥)を土に加える
④「クリスマスローズ24 2.17」
  昨年は鉢植えは夏越しに失敗し、多くの株を失った。地植えは元気に花を咲かしてくれた
⑤「花壇の今 3.1」
⑥「ノリさんのガーデンノート①4.27」
 鉢のボンヌイ、チャールストン、エスカペドが咲き出した。このうちボンヌイは夏が越せずに枯れた。
 クレマチス、シラー、ジャーマンアイリス、シランなども咲き出した
⑦「ノリさんのガーデンノート②・バラが咲き出した 5.3」
 イングリッシュローズ、つるバラ、クレマチスなどが咲き誇る 庭が最も華やぐ時期が到来
⑧「ノリさんのガーデンノート③・雨が降ってきた 5.6」
 マクロレンズ大活躍、雨対策として支柱の設置
⑨「ノリさんのガーデンノート④・バラと脇役たち 5.9」
 バラの株元にカンパニュラ、ナデシコ、ブラキカム(夏越しできず)などがひっそりと咲く
⑩「ノリさんのガーデンノート⑤・バラ最盛期 5.12」
 複色のフレンチローズ
⑪「ノリさんのガーデンノート⑥・つるバラの話 5.19」
 つるバラの魅力
⑫「ノリさんのガーデンノート⑦・バラの追肥 6.1」
 最初の花が終わったころ、一回目の追肥を行う
⑬「ノリさんのガーデンノート⑧バラ二番花とツツジ剪定 6.16」
 バラ(二番花)の他に小クチナシ、夏椿、キキョウ、ハナトラノオが咲き出す
 夏椿は木だが、このあと酷暑のためかなり枯れる。復活するだろうか
⑭「ノリさんのガーデンノート⑨・ホウジャク 7.8」
 「ホウジャク」見たことはあるが、名前は知らなかった
⑮「ノリさんのガーデンノート⑩・真夏のバラと水やり 7.30」
 水やりの難しさ、バラの夏バテ対策
⑯「ノリさんのガーデンノート⑪・バラ夏剪定の準備 9.4」
 夏剪定の難しさ 剪定後二回目の追肥
⑰「ノリさんのガーデンノート⑫・鉢植えクリスマスローズ植替え 9.29」
 遮光ネットの下に避難したため、夏越しは良好だった
⑱「ノリさんのガーデンノート⑬・バラゾウムシの被害拡大 10.18」
 4月からほぼ2週間毎に薬剤の散布をしているが、思わぬ伏兵にやられ、被害にあったバラでは花は咲かず
 この時期普通は害虫の被害は少なくなるのだが、暑さが続くせいか?
⑲「ノリさんのガーデンノート⑭・秋のバラ 11.1」
 花数少なし
⑳「ノリさんガーデンノート⑮・バラ秋から冬へ 11.29」
 晩秋のバラ

 今年も鉢植えのバラ3株、地植え1株枯らかした。今年の様に暑いと鉢の中の温度は高くなり、これで根がダメージを受ける。少し日影に避難させる必要があるかもしれない。鉢植えのクレマチスも同様である。夏越し対策について知恵を絞らないといけない。

最後に12月のバラ

 セシルブルンナー 12月17日撮影以下同じ

 ギーサヴォア

 ザワイフ・オブ・バース

 パーマネントウェーブ
 いずれもスマホの「ポートレート」で撮影



 
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24年振り返り・野菜づくり 24.12.29

2024-12-29 13:15:39 | 野菜作り
 今朝、里に雪が初めて降った。


 雪は雨に変わり、その雨も止み、まわりが明るくなったので城台山に出かけた。

 今朝の池田山 観音像のある展望台から

 落ち葉と新雪

 城台山山頂(城址)

 さて、今年の野菜づくりだが、7月まではスイカを除くとほぼ例年どおりだった。しかし、8月からの猛暑は10月まで続き、この暑さの影響を受けるものが続出した。
 
 7月16日 トマト、キュウリ、ピーマン、甘トウガラシ

◯夏野菜
 スイカ 大玉は7月始めまで順調に育ち、結構な大きさの玉となっていたが全滅。理由がよくわからない
     小玉は元気よく育ち、7月中はおいしくいただいた
     
     7月6日 真ん中は大玉か?日足らずで小さく十分甘くない
     
     お盆前から二番果(うらなり)がなり出した。甘みは一番果に比べると落ちるが、水分補給には最適
     結局9月上旬までスイカを食べることができた 

 ナス  米なすを除いて8月上旬頃剪定したが、その後元気が出ずに収穫も少なかった
     米なすは夏の猛暑にも元気に育った

 トマト 大玉に尻腐れ病の症状が出た。早速カルシウムの液肥をやった。さらに雨除けシートを張った上に防虫ネットが張ってあるので、中は相当な暑さになっていた。そこでシートの上に遮光ネットを張った。効果の程はよくわからない。

 枝豆 5月7日に一回目の苗の植付け、二回目7月下旬。一回目は7月上旬に例年並みに収穫できたが、二回目は9月20日に収穫したが、少量、おまけにさやに実が入っていないなど惨憺たる結果となった。
  
◯秋野菜
 ニンジン 3月末に蒔いたのは、梅雨を控えて6月20日に収穫 いまだにニンジンのきんぴらが食べられる
      9月5日に蒔いたのは、全滅
 大根   9月16日に蒔いたが、成長悪く、現在までに小さな約20本を収穫しただけ もっと遅く蒔くべきだったかもしれない(かつてなら秋の彼岸までに蒔くというのが常識だったが昔の常識が通用しない)

◯黒豆
 6月21日に苗を植付けした。7月22日に鹿による食害を発見、対策として網ネットを張った。上の方を食べられたが、8月には復活した。11月に枝豆として少し食べたが、全般に実のつきが悪い

12月に収穫したが、これだけ!こんな酷いことは初めての経験だった 

◯防獣柵の設置
 以前の防獣柵は背が低く、雑草が繁茂するとなお一層低くなる。鹿にとっては容易に畑の中に侵入できる。今まで足跡は確認していたが、大きな食害が出たのは初めてで少しショックを受けた。早速、町の補助金を申請し、10月に150mの柵を設置した。


◯管理機修理
 家にある管理機では深くは耕せないので、深くおこしたい時はあらかじめスコップか鍬で起した後で管理機を使う。機械を出して、自宅から600mくらいの距離のある畑まで押していく必要があるので、結構面倒くさい。このため、小面積であれば人力で起す。そうすると管理機を使う機会が減るので、余計に故障する。こうして今まで何回か修理してもらった。
 10月に管理機を使おうとして、エンジンをかけたが、すぐにとまってしまった。そしてリコイルスタータのロープが引っ張れなくなった。修理を頼んだが、オイルがない状態でエンジンをかけた(前回使用したときにオイルを抜いておいたのを忘れていて、しかも事前にチェックしなかった)ので、修理不能という返事だった。あまり使わないが、ないとやはり困るので、中古の同じ機種の管理機を購入することになった。

 防獣柵はほとんど自己資金がいらなかったが、管理機の購入は財政的に痛かった。野菜づくりには種、苗、肥料、堆肥、マルチなど資材のお金が結構かかる。かみさんが野菜の家計簿をつけたらどうかと良く言うが、つければきっとびっくりすることは間違いない。 

◯暑さ対策
 夏がこれから長くなることを考える必要がある。暑さに強い品種を選ぶことや蒔く時期や植える時期を遅らせる必要があるだろう。
 
◯最後に農薬を使うことについて
 有機農業や無農薬農業で作った米や野菜が味や健康に良いとか言われる。ただし、それ以外の農業の米、野菜が健康上問題であるというのは間違っている。農薬は正しく使えば健康上は問題がない。むしろ、害についてよく分かっていない有機で使う木酢液などを使う方が問題が多い。農薬はきちんとした基準があり、その基準は年ごとにどんどん厳しくなってきている。
例えば、セロリ、これ自体に毒成分を含んでおり、これが病気に冒されるとその毒の濃度が数倍濃くなる(どの植物も食べられないための防衛機能を持つ)。病気の初期は冒されていることが人間には判別できないので、セロリを農薬を使わない人は、これを出荷してしまう可能性はある。農薬を散布されたセロリは毒素を出す必要がなくなるので、かえって安全という結果になる。植物はこのように自己防衛機能を有する。人間がおいしく食べられるように改良された野菜でも健康に影響のない範囲の毒素(わさびの辛みなどもこの一種)を持っている。アルコールと同様に食べ過ぎ、飲み過ぎは健康に害となる。
以上は有坪民雄「誰も農業を知らない」からの引用

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24年振り返り・本 24.12.28

2024-12-28 19:12:38 | 面白い本はないか
◯新書
 今年も新書をたくさん読んできた。比較的一般向けにわかりやすく書いてあるし、200~300ページくらいなので一日か二日で読むことができる。出版不況にもかかわらず新書を出す出版社が増えてきている。

 今年読んだ新書の数を数えてみた。全部で109冊。出版社毎、読んだ本の数(5冊以上)で並べてみた。
  ちくま新書19冊、中公新書16冊、岩波新書16冊、講談社現代新書13冊、朝日新書10冊、新潮新書5冊、PHP新書5冊

 新書は最近出版されたものを読むことが多い。岩波や中公、講談社等は毎月かなりの数の新書を出すので助かる。ちなみに揖斐川図書館は全ての岩波新書が一箇所に蔵書されているので、過去に出版された本の現物を見ることができる。

◯小説
 昨年あたりから小説をすこしづつ読み始めた。2022年リービ英雄、村上春樹、23年葉室麟、藤沢周平、吉村昭、そして今年は葉室麟(8冊)、藤沢周平、浅田次郎、諸田玲子(8冊)などの時代小説を読んだ。かわったところでは、カズオ・イシグロの「日の名残り」「夜想曲集」「わたしを離さないで」、シャン・サ「碁を打つ女」。そして医者である夏川草介の「神様のカルテ」「スピノザの診察室」を楽しく読んだ。
 ※「碁を打つ女」は日中戦争の時代の話で以下の「戦場のカント」と関連がある

 昨日藤沢周平の「よろずや平四郎活人劇(上・下)」を読んだ。いつもながらの江戸の町の描写が細かく、特に橋がやたらと出てくる。夫婦げんか、もめ事などの仲裁を生業とする旗本の四男坊、剣は著者の他の作品同様にやたらと強いが無闇に殺めはしない。喧嘩両成敗のように最後はもめ事をお金で決着させる。そしてかつての許嫁と最後に結ばれる大団円がある。



◯「戦場のカント」と「<悪の凡庸さ>を問い直す」

 ここから、少し硬めの本のお話となる。揖斐川図書館で今月新刊の石川求「戦場のカント 加害の自覚と永遠平和」を見つけ(ときたま硬めの本がある)、早速読んだ。カントの思想には詳しくないが、ここで述べられていることのおよそは理解出来た。


 日中戦争(アジア太平洋戦争)が終わり、敗戦国となり、最初はシベリアに抑留され、後に中国の憮順戦犯管理所に送られた1000人の元兵士たち(ソ連と中国での抑留は11年間)の証言の記録がこの本の一つのテーマとなっている。この中に和辻哲郎のもとでカントについて学んだ兵士がいた。彼は部下に命じて捕虜を処刑した。彼以外にも多くの兵士が三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)を戦場の最前線で実行した。彼らは供述書を書くように管理所の職員から言われ、提出するが書き直すよう求められる。職員から言われたことは、加害者側から見た供述ではなく被害者側からみた供述を書くよう言われる。すなわち相手の立場に立って(殺された者、その家族の立場)供述するよう示唆される。人間として備わるべき良心を管理所での生活の中で取り戻し、反省する。中には罪を認めて処刑を望む者も出てくるが、彼らは収容が終わると誰一人戦犯としての罪に問われることなしに日本に返される。しかし、彼らは帰るとすぐに中国(共産党)に洗脳されているのではないかと疑いの目を向けられる(シベリアからの帰還者も同じ)。

※日本に帰還した抑留者たちは、1957年に「中国帰還者連絡会」略称「中帰連」を結成。会員資格は「中国を侵略して、中国の寛大政策により帰国した者」とした。731部隊・南京事件・強制連行について積極的に証言した。89年8月15日にNHKで放送された「戦犯たちの告白ー憮順・太原戦犯管理所1062人の手記で知名度を得た。中帰連は2002年に解散(会員が全員死亡したため)。

 日本人はすぐに謝るが、残念ながらそれは被害者の心に届かない。

 偶然であるが、この本の前に田野大輔他「<悪の凡庸さ>を問い直す」を読んだ。これは哲学者のハンナ・アーレントがナチのアイヒマンの裁判を見て書いた「エルサレムのアイヒマン 悪の凡庸さについての報告」にある「悪の凡庸さ」という言葉が一般に間違って解釈されているのではないかというのである。アイヒマンは、上からの命令を忠実に実行しただけだと主張する。これをアーレントは凡庸と表現したと。ところが、アイヒマンはユダヤ人を収容所に送る手段について自ら積極的に行動し、アルゼンチンでの逃亡生活でも自分が中心となって虐殺に関わったと同じナチの逃亡者に主張しておりとても命令だけで動いたとは言えない。彼はただ他人の立場に立って物事を考えることができないだけとアーレンは述べている。本では誤解されないために凡庸ではなく浅薄と言い換えた方が誤解を招かないので良いのではないかとの意見もある。

 ドイツでは国は日本よりある意味上手に謝罪した。その意味はナチに関与した者は戦後も裁かれることなく残り、また国民(ナチ政権を歓迎した)の個々は謝罪していない。日本ばかりでなくどこの国でも加害の事実を認めることはとても勇気のいることだし、場合によっては加害を認めない国民(これの方が多数かもしれない)からバッシングされるので余計に沈黙してしまう。

 整理が出来ないまま、まとまりがないことを書いてしまった。





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24年振り返り・山登り 24.12.26

2024-12-27 19:42:21 | 山登り
 クリスマス寒波は今年来なかったが、明日あたり雪が降るかもしれない

 12月25日城ヶ峰展望から伊吹山

 おなじく小津権現山(左)と花房山(右)


 今年の山登りの総括をするつもりだが、ほとんど見るべき記録はないことを承知のうえで書いてみる。

 高い山に全く登っていない。かつてのように人を誘って山に行く気は失せてきている。それは年齢からくる体力そして気力の減退といったところだ。

 それでも登りたい気持ちはある。勝手ながら誘いがあれば、行ってみたい山はある。

 今や中心は、城ヶ峰を登る会の月一度の例会(基本的におじさんが計画している)と体力の維持のための城ヶ峰、雁又山、池田山等を週毎に登ることになっている。

 今年は1月末に生まれて初めてインフルエンザにかかり、一月ほど軽い登山でもしんどかったし、毎年夏場は調子が悪くなるが、今年は酷かった。9月7日の竹屋谷からブンゲンでは、最近経験したことがないほどバテてしまった。(その後にかかったかかりつけの医者に夏は無理しないように言われた。)

 今年の城ヶ峰を登る会の活動報告をする。
 2月10日三輪神社~城ヶ峰~東ノ山~東ノ山トンネル(入口)~歴史民俗資料館~三輪神社 9人参加
      トンネルから三輪神社までの行程が長かった
 3月9日 釜ヶ谷山(696m) 11人参加
      前夜からの雪で山頂で20cmの積雪、思いがけず雪の山を楽しんだ


 4月13日 妙法ヶ岳(666m)14人参加
      葉桜の参道、新緑を楽しんだ
 5月11日 御座峰(1070m)12人参加
       エビネの群生を楽しんだ
 6月8日 相戸山(671m)14人参加
 7月20日 冠山(1256m)8人参加
       冠山トンネルを抜けて初めて福井側から峠に到着
 10月12日 小津権現山(1157m)4人参加
        参加者が非常に少なかった(なぜだろう?)
 11月9日 倉見山(927m) 12人参加
       紅葉が遅く、山頂付近でやっと紅葉を楽しんだ
 12月14日 南宮山(419m) 14人参加
        道がわかりにくい(女性陣の声:連れて行ってもらわないと登れない!)

 総括:体力差があるなかでの集団登山の難しさ(低い山でも)、天候(一週間前から気がかり、最近は予報がころころ変わる)など結構大変、しかしそれだから面白いのかもしれない

 来年の予定


 山の花
山シャク(飯盛山)

エビネ(御座峰)

フデリンドウ(部子山)

アケボノソウ(池田山)

            




  

 
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毎年恒例年末の仕事 24.12.23

2024-12-23 19:09:14 | 地域のこと他

 日本海側は大雪だそうだが、山越えた揖斐川の町にはまだ雪は降ってこない。 まずは今日の城台山の眺め

 拡大すると池に4羽の鴨がいる 狭い池のなかを周遊しており、人が池に近づくと写真の場所に来る

 20日に雁又山に行ったときに撮った写真

 御嶽展望から御嶽

 左日永岳(1215.6m) 右舟伏山(1040m) 御嶽展望から

 さて、この時期毎年行うのが家の掃除でその中心は窓ふきである。年末に窓ふきをやるようになったのは、高校時代か大学時代、いずれにしろ随分前となる。かつては湯に洗剤を入れて、雑巾で拭いた後、乾いた雑巾で仕上げ。結構な労力を必要とした。

 庭を少しきれいにしたことから、窓ふきに外構のコンクリート化粧面(土を使うので汚れる)などを洗う仕事が加わった。そこで高圧洗浄機を購入し、最初は化粧面そして一階の窓ふきに使うようになった。窓には網戸もあるので、洗浄機があるととても便利である。ただし、二階はあいかわらず、手仕事となる。

 年に一回しかやらないので、使うのも結構大変! 巻いてしまってあるホースがなかなかまっすぐにならないので厄介

 次は年賀状
 毎年誰かが「辞めます」「卒業します」と連絡してくるが、おじさんは少なくなったが出している。理由は年賀状でしか挨拶できない人が多い(だから止めるということかもしれない)、葉書は高くなったがパソコンで簡単に作ることができる。パソコンの前はプリントゴッコだったが、結構面倒だった。
 ※おじさんの年賀状
  23年まで バラの写真(親戚など用)を使ったレイアウトと山の写真(山の友達用)を使ったものの2種類を「筆ぐるめ」で作成
  24年母が前年に亡くなったので欠礼
  25年 一本化(今年たいした山に登っていないのが最大の理由) 

 毎年9月になると欠礼のあいさつが届く。これで亡くなったことを初めて知ることが多い。年賀状を辞めてラインにするという友達が多いが、このあと何もあいさつがなくなることもある。本人が亡くなったら、ラインでのあいさつはもちろんできない。
 今年届いた欠礼のうち一枚は仕事をしていた時に同僚として世話になり、遊びでも一緒にしたT氏の奥様からだった。仕事を辞めてから、年賀状だけのつきあいとなっていたが、奥様にお手紙とお菓子を送ることにした。もちろん、自宅の位置は大体わかっていたので、訪問するという選択肢もあったのだが。奥様からお礼のショートメールがあったが、とても喜んでもらえたと感じた。
 やっぱり、年をとったこともあるかもしれないが、葉書や手紙でのあいさつはネットを使ったあいさつとは随分重みが違うと思う。 
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