よく見れば薺(なずな)花咲く垣ねかな 芭蕉
句郎 「よく見れば薺花咲く垣ねかな」。芭蕉四三歳の時の句だ。この句、どうかな。
華女 「よく見れば」が良くないわ。
句郎 報告というか、説明しているような気がするよね。
華女 そうよ。芭蕉の作にもこんな作があるのかと安心するわ。
句郎 でも芭蕉としては「よく見れば」と言わずにはいられなかった気持ちがあったんじゃないのかなというようにも思うんだ。
華女 その気持ちそのままを言ってしまったのよね。
句郎 だから句としては出来上がっていない。
華女 芭蕉は何を発見したのかしら。
句郎 なずなの中に自得を発見したんだ。
華女 なずなは路傍に咲く雑草のようなものよね。
句郎 、人に認められることのない花、振り返って見られることもない花、そんな花だよね。その花をじっと見ると実に美しい。可憐ですらある。早春の寒さの中で小さな花をいくつも付けて咲いている。ここに感動があったんだ。自得している。自分に満足している。人は誰でも承認要求があるよね。自分の存在を認めてほしい。他者に自分の存在を認められてこそ自分はここに存在することができる。そんな気持ちを人は誰でもあるに違いないんだ。
華女 確かにそうよ。学校に居ても、職場に居ても、家庭にあってもよ。自分の存在を無条件で回りの人が受け入れてくれているから人はそこにいることができるのよ。
句郎 社会というのはそのようなものだと思うんだけれども、実際の学校や職場・家庭なんかにあっても、排除されているような人がいるでしょ。
華女 学校には、いじめられっ子がいるわね。
句郎 職場はもっと凄いよね。やめさせたい人間には仕事を与えないというような嫌がらせがあると聞くよ。
華女 そうね。そんな人が私の職場にもいたわね。誰とも話さない独身のOLさんがいたわ。若い女の子の中に五〇近くになった化粧っ気のない事務員がいたわ。仕事はできるのよ。でも誰も話しかける人はいなかったわ。仕事以外はね。
句郎 芭蕉が生きたのは身分制の差別が当然のこととしてまかり通っていた時代でしょ。その中にあって俳諧師は人から尊敬をもって認められるような職業ではなかった。今で言えば、一種の芸能人だった。芸能人に対する差別意識が強い社会だった。ごくごく一部の芸能人のみがその存在を認められていたにすぎない。
華女 芸能人に対する蔑視感のようなものがあったのは分かるわ。
句郎 士農工商の中に入れないが芸能人だからね。
華女 芭蕉のような漂泊者は特にそうだったかもしれないわ。
句郎 芭蕉は路傍に咲いている「なずな」などのような雑草に目もくれなかったが「よく見れば」実に美しかった。この美しさに芭蕉は自得を発見したんだ。なずなのように自分は一人でいることができるんだ。俳諧をすることができるんだ。自分は俳諧に生きることで十分に満足しているんだ。こんな気持ちを詠んだ句が「よく見れば薺花咲く垣ねかな」なのじゃないのかな。