醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  319号  白井一道

2017-02-19 12:28:55 | 随筆・小説

 居酒屋探訪 北千住の小さな居酒屋

 夕暮れて狭い路地に赤提灯が灯ると仕事を終えた男たちがそぞろ歩き始める。目的地がはっきりしている男たちは自宅の玄関の戸を開けるがごとくに居酒屋に消えていく。夕暮れ時の飲み屋街は男たちのオアシスである。
 日光街道筋の宿場町として繁盛した北千住には、往事の庶民の俤を偲ぶよすがが残っている。狭い路地、赤提灯を灯した小さな居酒屋の数々、猥雑な賑やかさ昔は小便の匂いが漂っていたのかもしれない。
 北千住駅前でOさんと待ち合わせをした私たちは、Oさん馴染みの居酒屋にむかった。その居酒屋「いっちゃん」は細い路地の行き止まりにあった。暖簾をくぐると口開けだった。七人が腰掛けるといっぱいになってしまうカウンターだけのそれはそれは狭く小さな居酒屋だった。Oさんは、生ビールの中ジョッキを手に持つと勝手知ったるがごとくに樽からビールを注ぎ始めた。私も中生を一杯お願いした。午後六時までに入った客は、中生一杯三百円なんだ。そうそう、馴染みさんへの出血サービスですよ、と主人がのべた。
 客が入ってきた。Oさんが挨拶をかわした。主人は黙って下を向いて包丁を動かしていた。その客もまた自分で生ビールの中ジョッキを取ると独りで生ビールを注いだ。「台風は直撃をまぬがれそうだな。雨もそれほどでないよ。」「そりゃ、よかった。」
 男たちは、自宅にいるような気安さで話し始めた。職場の人間関係から解放され、父親から解放され、夫からも解放された男たちは、ただ一人の男としてここにいる。この空間に居心地の良さを発見した男たちが集まってくる。一人で行くことができる。そこにはそこだけの仲間がいる。日常の会話を楽しむことができる。酒はその話の潤滑油である。
 一人づつ、客が入ってくる。Oさん、今日はそっちに座っているの。うん、 今日は連れがいるんでね。Oさんには指定席があるようだ。常連の客にはそれぞれの指定席があるようだ。夕方六時、間際になると店は客でいっぱいになった。それでも七人である。その中の二人が地図を取り出し、話しこみはじめた。温泉旅行の話のようだ。この居酒屋の客だけでいく温泉と酒と蕎麦を楽しむ会のようだ。候補地を酒を飲みながら探すことが楽しくてしょうがない様子だ。これが酒のつまみになっている。
 私はOさんと同じく生ビールを飲んだあと、獺祭(だっさい)の大吟醸を頂いた。なんと一杯五百八十円だった。安い。他の店だったら千円はするかもしれない。山口県岩国市にある小さな酒蔵の酒である。獺祭をいただいたあと、高千代の巻機をいただいた。つまみを一品注文し、熟年を迎えた男たちの話を聞く楽しみをもった。
 Oさんは、冷やのコップ酒を二杯飲むと終わりのようだ。それ以上飲むと翌日に残るといっていた。切れのいい酒飲みだ。電車を乗り過ごすこともないだろう。このような酒飲みでなくてはならない。こう思った。中生一杯とおいしいお酒を二合弱。居酒屋「いっちゃん」は、
人肌のぬくもりを求めて東京・下町のロケーションの中に男が集まる居酒屋だった。