辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
句郎 「辛崎の松は花より朧にて」。この芭蕉の句、良い句だと思えないんだけれどね。
華女 「野ざらし紀行」にある句ね。
句郎 四十二歳の芭蕉が大津尚白亭に招かれ詠んだ発句がこの句のようだけれどもね。
華女 そうね。この句、独立した俳句としては、私もどうかと思うわ。でも俳諧の発句として読むとこのような発句もありなのかなと思うわ。
句郎 俳諧の発句。なるほどね。この句の脇句がどのような句だったのか知らないけれども、何となく分かるような気がしてきたかな。
華女 そうでしょう。名所の句なのよ。
句郎 唐崎の松は当時すでに有名だったんだろうね。近江八景「唐崎の夜雨」で知られる名勝唐崎神社の松としてね。
華女 唐崎の松は桜の花より朧に見えて綺麗だといっただけの句じゃないのかしら。
句郎 なんでもない句なんだ。桜の花より松の枝ぶりの方が綺麗だな、唐崎の松は。
華女 きっと、そうよ。だから脇句は付けやすかったのよ。
句郎 そうかもしれないな。
華女 見えたまんまを詠んだのよ。そんなことが『去来抄』にあると聞いたことがあるわ。
句郎 そうそう、「にて」止めについての議論が其角や去来、呂丸によってあれこれあった。それはそうだが、それは理屈だと芭蕉は述べ、「深い意味は無い。ただ花より松の方が朧で面白かっただけだ」と述べたと『去来抄』にあるね。
華女 俳諧の発句というのはそういうものなんじないのかしら。
句郎 俳諧を詠む。歌仙を巻く。見えたもの。見たものをそのまま詠む。そこに作者の意図を盛り込まない。芭蕉は自分が意図しない文学の地平を歩き始めた。自分がしていることの意義を自覚することなく新しい文学の道に進んで行った。
華女 新しい文学とは何なの。
句郎 ものを見えたようにそのままを表現する。これがリアリズムの始まりだからね。
華女 あぁー、ルネサンスの精神ね。
句郎 美しいものは神、真実は神にある。このような考えに対してこの世の地上にあるものに美を発見したのがルネサンスだからね。彼岸のものから此岸のものに人間の関心を引き向けたのがルネサンスのようだから、芭蕉は唐崎の松を見て、感じたこと、そのままを文字にした。これは和歌の世界で美しいとされてきたものではなく、自分の目で見て綺麗だなと思ったものをそのまま表現した。
華女 「辛崎の松は花より朧にて」。この句にはリアリズムの芽生えのようなものがあると言いたいのね。
句郎 そう、リアリズムだよ。山本健吉はこれを「即興性」という言葉で述べているが、残念ながら「即興性」という言葉では芭蕉の発句にあるリアリズム性にまでは気づていないように思うんだ。
華女 山本健吉まで批判しちゃうの。
句郎 批判じゃないよ。不十分かなと言ったまでだよ。
華女 長谷川櫂氏は芭蕉をシェイクスピアになぞらえているものね。