醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  316号  白井一道

2017-02-07 11:21:11 | 随筆・小説

 花の雲鐘は上野か浅草か  芭蕉

句郎 深川から上野や浅草は見えないよね。
華女 でもゆっくり歩いて行ける距離だと思うわ。
句郎 そんなに近いのか。
華女 そうよ。近いのよ。
句郎 そうか。「花の雲鐘は上野か浅草か」と芭蕉は貞享4年、四十四歳の時に詠んでいるからね。
華女 今では口承のようになっている句ね。
句郎 「鐘は上野か浅草か」は出てくるんだけれど、「花の雲」が出てこないんだよね。
華女 そうよね。三百年前の経験が今も日本人の心に残っているんじゃないのかしら。
句郎 そうなのかもしれない。この言葉が芭蕉の俳句の中七、下五だということすら知らない人がいるようだし。
華女 芭蕉は凄いわね。自分の詠んだ俳句が日本人の心にしみこんでいるなんて、本当に凄いと思うわ。
句郎 俳句の一部が日本人の口承として伝えられているんだからね。
華女 「花の雲」は季語になっているのよね。
句郎 桜が山一面に満開になったような状況を雲になぞられている言葉なんだろうね。
華女 「花の雲」。綺麗な言葉ね。
句郎 みんなが綺麗な言葉だなと思うような言葉が季語になっていくんじゃないのかな。
華女 きっと、そうよ。でも「花の雲鐘は上野か浅草か」。なんでもないような句ね。
句郎 そう、なんでもないような句がきっといい句なんじゃないのかな。
華女 なんでもないことをなんでもないように表現することが結構難しいのよ。そうなんじゃないかしら。
句郎 「道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」もそうだよね。なんでもない句だよね。
華女 そうね。なんでもないのが凄いのよね。
句郎 三百年前の日本語なのに、現代の中学生にも何の抵抗もなく読める日本語になっているからね。
華女 そうね。
句郎 何といっても芭蕉の一番有名な句、「古池や蛙飛びこむ水の音」。この句も日本人なら誰でも知っているような句だと思う。
華女 そうね。現代日本の言葉にすでになっているような句ね。
句郎 俳句の誕生は現代日本語をつくったのかもしれないな。
華女 現代日本語は三百年前、芭蕉とその仲間たちがつくった俳句の中に起源があると句郎君は言いたいのね。
句郎 そうなんじゃないのかな。「花の雲」も「道のべの」、「古池や」の句はすべて現代の中学生が十分に読むことができる日本語だと思うからね。
華女 俳句の誕生というのは、日本の文学におけるルネッサンスのような出来事だったのね。
句郎 そうなんじゃないかなぁー。士農工商という厳しい身分差別があった中にあって、天皇、華族、士族に独占されていた美しい日本語を平民であった農民や町人たちが自分たちの言葉にしたという出来事が俳句の誕生ということなんじゃないかと思っているんだ。
華女 そうなのかもしれないわ。きっと。
句郎 「花の雲鐘は上野か浅草か」。読んでみてつっかえるものがない。実に平明な日本語だ。この句が三百年も前の日本語だなんて驚くね。