浅川マキを偲ぶ
かもめ、かもめ、さよなら、あばよ。浅川マキの歌声が耳に残っている。
何年か前のことである。浅川マキの死亡記事が新聞の三面記事に小さく載った。まだ歌っていたんだ。
「夜が明けたら、一番早い電車に乗るから、切符をちょうだい」。私が学生だった頃、心に沁みた歌だった。窓を開けたまま着替えする女に胸の内を明かすことができない。その女の部屋のドアを叩いた男がいた。成り上がりの男は胸いっぱいのバラを抱えて女の部屋のドアを叩いた。嫉妬に狂った男は女の胸に真っ赤な血の薔薇を咲かせた。かもめ、かもめ、さよなら、あばよ。石川県白山市近傍の漁師町で実際にあった話を浅川マキは歌ったのかもしれない。歌を聴いたとき、私はカルメンのような妖艶な浮気な女に恋をした悲しい男を想像した。その男の哀しみが胸に沁みたのかもしれない。
そんな人間の哀しみを黒い服をまとい黒い帽子を被りハスキーな声で軽く歌った。軽快な低い声に心がこもっていた。
夜が明けたら、この街を出て行こう。一番早い電車に乗って、あの街はいい街だから。
こんな日本にいたくない。ヨーロッパに行こう。そこは良いところだから、船に乗って日本を出て行こう。こんな気持ちが当時の若者にはあったように思う。一九六八年、七〇年安保闘争が燃え上がっていた頃、浅川マキは「かもめ」「夜が明けたら」という歌でレコードデビューした。
その頃「書を捨て街に出よう」という本を書いた人がいる。寺山修司である。この本が私の仲間たちの間で評判だった。私は読まなかったが友人の批評が心に残った。「寺山は書を捨て街に出よう、と云っているけど街で何をしたらいいのか、何も言っていない」。勉強を止して街で何して遊んだらいいのか分からない。大学解体を叫んだ学生たちがいた。大学を解体して何をしようというのか、分からなかった。寺山修司もその流れの人だと感じた。だから私は興味も関心も寺山修司に抱かなかった。がしかし、この寺山修司に浅川マキは見出され、歌手になった。
私は職を得て、しばらくたって、新聞の「折々の歌」欄で寺山修司の短歌を知った。「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つる祖国はありや」。このを読み、寺山氏への印象が変わった。「祖国」という言葉に権力を私は感じた。祖国」を自分のものにしたいと思ってもその「祖国」は海の霧が深くてつかの間見えてもすぐ見えなくなってしまう。そうだ。まったくそうだ、と感じた。寺山修司と浅川マキ、私が学生だった頃、若者の心を捉えた人だった。浅川マキは享年六七歳だった。前日まで名古屋で演奏会に出演し、最終日の前日、投宿していたホテルで心不全のため亡くなった。湯船に顔半分つけたままだったという。
みんな夢木枯し吹いた独りの夜
七〇年安保、全共闘が暴れまわった時代はすべて夢のような出来事だった。本当に馬鹿なことをしたもんだ。私は一人、哲学書を毎日、毎日少しづつ読み進め、論文を書く準備をしていた。その頃、独りっきりだった。浅川マキの死はその頃のことを思い出させた。暗闇の思い出だ。