『徒然草第6段』を読む
「わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん」と第6段を兼好法師は書き出している。それほど身分が高くなくとも、まして数にも入らないような者にとっては、子というものはいない方がいい。このように兼好法師は述べている。
子を持ったことを悔いた父親がいる。父親の行動に心が沁みた。1972年2月に起きた浅間山荘事件である。今から47年前にこの事件は起きた。この事件はまた連合赤軍事件とも言われている。この事件の首謀者たちの中に京都大学を中途退学した坂東國男がいた。彼の父親はあさま山荘事件で人質を取って籠城する息子の犯行に悲観して、息子が逮捕される直前に自殺している。横浜国立大学を中途退学した吉野雅邦の父親は大企業の重役に就いていた。息子が連合赤軍事件に関わり反社会的事件を起こし社会を騒がせ、社会に与えた重大な責任を自覚し辞職している。当時未成年だった2人の少年の父親は教職従事者であった。事件が起きると自分の子どもの教育も満足にできない親が、他人様を教育することなどできないと言って、教職を辞している。2人の少年の兄はリンチによって遺体で発見された。
「寺岡恒一の父親の一郎氏は、息子が約1ヶ月前に無残にも命を絶たれていることも知らずに、息子があさま山荘に籠城しているものと信じて必死で呼掛けを続けた。 “君たちの評価は今後の君たちの行動にかかっている”と、人質を解放して潔く投降するように説得した。 11月19日は寺岡恒一さんの父親の一郎氏の命日である。 恒一さんのお母様によると、お父様は子煩悩で教育熱心な方で、学校の授業参観や学校行事に出席することが多かったそうだ。 現役引退後は自宅で学習塾を開いて、恒一さんが使っていた部屋で近所の子供たちに勉強を教えていたそうだ。 部屋の壁に掛かっているあの魚拓も、恒一さんが出て行った当時のままの状態で残されて今に至っているのだそうだ。 恒一さんのお父様は、息子が意気揚々と釣り上げた魚を魚拓にした当時の面影をいつも感じていたかったのではないかと思われるし、恒一さんもその場にいるような思いを感じて、偲ばれることもあったのではないかと思う。 1998年のこの日、87歳の生涯を閉じた。 恒一さんは連合赤軍事件で命を奪われ、その弟さんは成田闘争に加わった」。悠閑アンダンテ氏より
子を持ったことによって得た父親の悲劇である。しかし母親は父親と異なり息子に理解を示し懸命に生きた人がいる。
「毎日新聞 2009年2月20日 東京朝刊
◇「月に一度の面会」36年
房総半島の自宅から約2時間半。月に一度、東京・小菅の東京拘置所に足を運び、息子と向かい合った。
連合赤軍事件の坂口弘死刑囚(62)の母菊枝さんが、昨年9月17日に他界した。93歳。72年の夏、長野刑務所に拘置中の息子を訪ね、世話をすると伝えた。以来、36年間にわたって約束を果たす。
◇
4人兄弟の末っ子は、65年に東京水産大(現東京海洋大)に入学すると、学生運動に突き進んだ。2年後に中退。銃砲店に押し入り散弾銃などを奪って逃走し、最後にあさま山荘事件を引き起こした。東京地裁が死刑を言い渡した翌日の82年6月19日。菊枝さんは東京拘置所を訪れた。息子が、普段の「おふくろ」ではなく「お母さん」と呼びかけると、「そんな言葉使うな」とはね付けた。 控訴審が始まると、菊枝さんは長野や東京まで被害者や遺族に謝罪して回った。だが、93年3月に死刑が確定。その月、後藤田正晴法相(当時)が、3年4カ月ぶりに死刑執行を再開する。翌日、菊枝さんは不安をのぞかせ拘置所を訪れた。
坂口死刑囚が師事する歌人の佐佐木幸綱さん(70)に短歌を届け、歌作を支えたのも菊枝さんだった。「自分の責任を感じておられたんじゃないか」。息子に献身する母の姿を、佐佐木さんは振り返る。仕事、家庭。兄3人は、それぞれの生活を抱えている。「ほかの子(兄)はできないので、私がやってやらなくちゃ」とも言っていたという。
坂口死刑囚は支援者を通じ、毎日新聞に母の死去について「所感」を寄せた。
《無私の恩愛に、私は在り来りの言葉では言い尽くせぬ深い感謝の気持ちを抱いています。母の存在抜きにして今の自分があることは考えられません》
◇
奥深く拒まれ いまも実家にて吾の名禁句と 母は嘆けり
坂口死刑囚が詠んだ歌である。
「犠牲者の方に何とおわびして良いか分からず、私も妻も死ぬ気でおりました」。千葉県の実家で母親と暮らしていた長兄(76)は、86年1月に東京高裁で、そう証言した。当時小学生だった2人の子供を守るため、自殺を思いとどまる。「子供が将来も犯罪者の家族だと言われては。親として、防波堤にと思って必死でした」
父親は54歳で他界。坂口死刑囚が子供のころは、長兄が面倒を見ていたという。ただ、記者に先月届いた手紙には、母親との「温度差」ものぞかせた。
(罪を犯した子供の為に生涯を尽くした母はそれなりに本望だったと思いますが(略)私は、40年来取材の度に世間の人に好奇の目で見られ話題にされて過ごして参りました)
明日21日は、菊枝さんがあさま山荘前で息子に銃を捨てるよう呼びかけて37年に当たる。 【武本光政】より