徒然草二十段 『某とかやいひし世捨人の』
「某とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ」。
何某とかいう出家して山野に閑居し、仏道に精進した者が「俗世間の束縛を持たぬ者にとって、ただ空の名残だけは捨てられない」と言っていることはまったく、その通りだ。
美しいものに人は憧れる、美しい人に人は心惹かれる。美しい酒器で酒を飲みたい。美しい歌声に包まれていたい。美しい音が鳴る中にいたい。美しい数式に心惹かれる。美しい将棋の駒組に心震える。
「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と西行は秋の夕暮れの景色を詠んでいる。 出家した西行にとって俗世間の柵(しがらみ)を捨てているにもかかわらず、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の景色の美しさは胸に染みてくると西行は詠っている。
出家し、「心なき身にもあはれは知られけり」と美しい景色を見ると人間的な感情に心が満たされてしまう。
また西行は次のような歌を詠んでいる。「嵐のみ時々窓におとづれて明けぬる空の名残をぞ思う」と。『山家集』に収録されている歌である。嵐が吹き抜けた後、空の塵がすべて強い風、嵐によって吹き飛ばされた後の空の美しさは忘れることができないものだ。美しい空は空の名残としていつまでも私の心の奥底に残っているものだ。世俗の世にいることを拒否し、仏道に精進する道を歩もうとしている者にとってもこの世の美しいものとして嵐の後の澄み切った空は捨てがたいものだ。
「花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふわが身に」。『山家集』の中にはこのような歌も詠まれている。桜の花を見ると何と美しいのかと感じてしまう。その気持ちを打ち消すことはできない。私の心に焼き付いて放すことができない。あぁー、桜の花ほど美しい花はない。世俗的な感情を捨て果ててきた思いになっていたが春になると咲く、桜の花を見ると美しいと感じてしまうこの気持ちを捨てきることができないと詠っている。
「いつか我この世の空をへだたらんあはれあはれと月を思ひて」。『山家集』に載せてある歌である。西行はまた、月を見て、美しいと感じている。私は夜空にまたたく月を見て美しいと思っているがいつかこの世の空に昇る月を真実美しいと感じているが、その気持ちを捨て去ろうと思っていると。
西行は自然界の美しさに責められて責められてその苦しみにもがいていた。その苦しみが歌となって現れ出た。言葉に表現することによって西行はその苦しみからの解放を願っていた。西行にとって歌を詠むことは解脱への道でもあり、修行でもあった。
兼好法師は世捨て人の修行の苦しみを思ってこの文章を書いた。