徒然草二八段 『諒闇(りやうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ』
「諒闇(りやうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ」。
天皇が父母の喪に服する年ほど哀感が深くなることはない。
「倚廬(いろ)の御所(ごしょ)のさまなど、板敷を下げ、葦(あし)の御簾(みす)を掛けて、布の帽額(もこう)あらあらしく、御調度(みてうど)どもおろそかに、皆人の装束・太刀・平緒(ひらを)まで、異様なるぞゆゝしき」。
天皇が服喪のためお籠りになる仮御所のご様子など、板張りの床を他の宮殿より、地面に低くつけて造り、竹で作るのではなく、葦で造った粗末な簾を掛け、簾の上部を濃い鼠色の布で作ったものでぞんざいに被い、道具類が粗末で、皆人の装束・太刀・太刀に付ける飾りの紐までが異様なほど粗末なものであるので、不吉ですらある。
自社さ連立政権が成立したことがあった。その内閣が村山富市政権だった。日本社会党衆議院議員であった村山富市氏が第81代内閣総理大臣に任命され、1994年(平成6年)から1995年(平成7年)まで続いた日本の社会党政権であった。
村山富市氏は大分市市議会議員を経て大分県会議員になり、大分県から衆議院議員に当選して国政を担当する政治家になった。その後、村山富市氏は政権を失い、国会議員を引退し、大分に帰った。
私はテレビを見ていた。往年の総理大臣を尋ね、インタヴューする番組を放映していた。村山富市氏はママチャリのような自転車に乗ってインヴュー会場にやってくるところをテレビは放映していた。日本中、どこにでもいるごく平凡な老人がスーパーに買い物に行くような普段着の格好をして村山富市氏は現れた。ここに元社会党国会議員だった証を見るようだった。元社会党議員では黒塗りの自動車に乗ることができないのだと村山富市氏の姿を見て思った。私らと変わらない年金のみの生活者であることを自転車に乗った村山富市氏の姿に見た。
権力を取った者も権力を失えば、普通の老人になるということが当たり前になる社会が真っ当な社会にならなければならない。一度でも権力を握った者は豊かな生活、黒塗りの自動車を乗り回すような生活ができる社会であってはならないだろう。
兼好法師が生きた時代は公家たちの豊かな生活が保証されている社会ではなかった。
1185年に鎌倉幕府が成立すると、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が滅亡した。その1219年以降、鎌倉は将軍の代理人である執権の北条氏が実権を握り、幕府を実質的に手中に収めるに至った。日本を統治するのは朝廷であり、朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きたのが承久の乱である。
1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)によって、最終的に朝廷は権力を鎌倉幕府に奪われ、以後武家政権が明治維新まで続くことになる。鎌倉幕府に反旗を翻した後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に敗れ、隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。
承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも影響力を持つようになっていった。
朝廷が権力を失った時代に朝廷側の世界に生きた兼好法師は財政的にも窮乏化していく朝廷社会の無常を実感せざるを得なかった。『徒然草第28段』に出てくる天皇とは『建武の中興』で有名な後醍醐天皇のようだ。後醍醐天皇の時代に兼好法師は生きていた。後醍醐天皇の父母が亡くなった時、昔のような華やかな法事が営まれることはなかった。廃れいく朝廷社会の無常を表現したのが第28段のようだ。確かに後醍醐天皇は北条政権に反旗を翻し、蜂起するが失敗している。
徳川幕府の成立によって最終的に武家政権の絶対的な権力が確立する。