徒然草第8段を読む
「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」と兼好法師は第8段を書き出している。誠にこの通りだと今になってつくづく思う。私も愚かな男だったのだと実感せざるを得ない。
夕暮れ時の新宿歌舞伎町を友人と二人で歩いていた時だ。着物を着た女性が前から歩いて来た。咄嗟に友人が小声で言った。化粧の匂いだ。「匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり」。化粧の匂いにくすぐられる気持ちが我々の心に起きたことは事実だった。私は女の顔を見た。女は我々など無きものとして涼しい顔をして通り過ぎて行った。
「九米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは 、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」。ミニスカートの女がエスカレーターに乗って二階へ登っていく。それとなく上を眺める一階の男がいた。男は知らんぷりしたまま出口に向かって歩いて行った。
男は実に愚かな生き物である。1980年代だった。一時期、ノーパン喫茶店が流行った。ノーパンのウェイトレスがいるだけの喫茶店だった。ノーパンしゃぶしゃぶが流行ったことがある。その店に通いつめ、首になった若い旧大蔵省キャリア官僚がいた。「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」である。
異性への誘惑、セックスへの願望、セックスの快楽を人間は我慢することはできないようである。人間は苦しみには耐える。がしかし快楽を我慢することは困難であると昔、ギリシャ哲学の講義を聞いていた時、聞いた言葉だ。万学の祖、アリストテレスも性的快楽を我慢することができなかったのかもしれない。