「徒然草第十段」を読む
兼好法師は住いについて一家言の持ち主だった。第十段は住いについてである。鎌倉時代から南北朝時代にかけての社会において自分の家を持てたのは貴族や武士たちだけであったろう。当時の住民の大半は家らしい住いに住んでいたとは思えない。当時京都に住んでいた貴族たちの住まいについて兼好法師は述べている。
「家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ」。
住まいはそこに住む人に似つかわしいものであってこそ、この世は仮の宿りではあっても興味のつきないものであろう。
「よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ」。
位の高い方が長閑に住んでおられるところは住いに入る月の光もひときわしみじみと感じられるものだ。今をときめく煌びやかさはないけれども屋敷を取り巻く木立は古びてわざとらしさのない庭の草花にも趣きがあり、簀や透かした垣根には風情がある。さりげなく置いてある道具類も昔から親しみ心落ち着くものばかりであるからこそ心憎い。
「多くの工(たくみ)の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ」。
多くの木工職人さんたちが心を込めて磨き立てた舶来品や日本製の珍しい言いようもない素晴らしい調度品などを並べ置き、植え込みの草木にまで手を入れて作ってあるのは見苦しく、侘しい限りだ。そうしたままで、この人はいつまでここに住み永らえるつもりなのだろう。人の命は時の間のもの。煙となって消えてしまうものぞ。ちょっと考えてみればわかるものを。おおかたは住いにこそそこに住む人の様子を推し量ることができるものだ。
「後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に、鳶(とび)ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、『鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ』とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例思ひ出でられ侍りしに、『まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん』と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん」。
後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の寝殿の屋根に鳶がとまるのを嫌って縄を張ったのを西行は見て、「鳶が屋根にとまっていたら何が見苦しいのかと、この屋敷の殿の心はこの程度のものか」と、その後は参ることはなかったと聞いている。綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつのことだったか、縄が張り巡らされたことがありましたが、かの例を思い出されて「まことに烏の群れが池の蛙を捕るのを見て悲しまれていた」と人に語っていることこそ、大事なことだと思う。徳大寺にはどのような理由があったのであろう。
現代日本社会においては大工さんがいない。大工さんの仕事が失われている。家は工場で生産されるものになってきている。現場では組み立てるだけになった。昔に比べて建築期間が大幅に短縮されてきている。昔に比べて同じような家がどこにも建っている。日本中どこにいっても同じような家が建っている。画一化が進んでいる。効率化が豊かな建築文化を損ねている。
日本建築の美しさは軒の深さにあると奈良や京都の寺院建築を見て感じる。東京都心から50キロ以内の通勤圏内の家々の大半には軒はないのがほとんどだ。遠くから見るとマッチ箱のような家々ばかりである。軒の深い家など作ることができない。狭い土地にぎっしり詰まって建っている。
軒が深く、屋根裏の垂木が見えるような家を探すことが困難な状況である。建築とはその土地の風土にあったものであった。日本の建築は日本の風土にあったものがつくられてきた。日本は雨が多い。だから軒が深く取られるような家づくりが図られた。気温が高く、湿度が高いから兼好法師が述べているように夏向きの家が良い。日当たりが良いように南向きの家が好まれた。しかしそのような贅沢がいえない状況に今の日本はあるようだ。