醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1191号   白井一道

2019-09-20 11:09:29 | 随筆・小説



    徒然草十九段 『折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ』



 「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。」。

 季節の移り変わっていくことは特に、ものごとに情趣を表してくれる。

 「『もののあはれは秋こそまされ』と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあンめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(かきね)の草萌え出づるころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し」。

 「ものの情趣が極まるのは秋だ」と人々は言っているけれども、確かにそうかもしれないが、今一番に心が浮き浮きするのは春の景色じゃないだろうか。鳥の鳴き声ひとつとってみても春らしく、長閑な陽ざしに、垣根の下草が伸びだすころから、いくぶん春らしくなり、霞がたなびき、花がようやく咲きだすようになってくると、折しも雨や風の日が続き、心配する日が過ぎていく。青葉が茂るようになるまで、すべてに、ただ心のみを悩ます。「さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」と歌に詠まれているように花の香と言えば、花橘であるが、梅の花の匂いには昔の事も偲ばれ、愛おしく思い出される。山吹の清々しさ、藤の花の頼りなげにゆれる姿すべて捨てがたいものがおおい。
 
 「『灌仏の比、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ』と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲ふく比、早苗とる比、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり。六月祓、またをかし」。

 花まつりや加茂神社の祭、若葉の頃の梢が涼しげに茂っていくことほどこの世の美しさも人への恋しさもつのるものだと世間が云うのも最もなことである。五月、菖蒲が咲くころ、早苗取る頃になると水鶏が戸を叩くように鳴き始めるとどこか心寂しく感じられないだろうか。六月の頃、貧しい家にも夕顔が白く咲くのが見え、蚊遣り火がくすぶっているのも情緒がある。夏越祓もまた趣きがある。

 「七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず」。

 七夕まつりほど艶めかしい祭りはない。しだいに夜の寒さが感じられ始めるにしたがって雁が渡って来て鳴き始める。萩の下葉が色づいてくると、早稲を刈り取り、干すことなどが始まる。取り扱う仕事が多いのは秋が一番だ。また台風の朝ほど情趣がある。書き続けるとすべて源氏物語や枕草子などに言い古されてしまったことになるが、同じことをまた今更に言ってはならないと言うことでもない。同じようなことを言わないでいると腹ふくるることになるので書いたが、筆に任せてつまらないことだと破り捨てるべきものなので人に見せられるようなものではない。

 「さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉の散り止りて、霜いと白うおける朝、遣水より烟の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名(おぶつみょう)、荷前(のさき)の使(つかひ)立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(つゐな)より四方拝(しほうはい)に続くこそ面白けれ。晦日(つごもり)の夜、いたう闇きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂(たま)祭るわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」。

 さて、冬枯れの景色は秋の景色に劣るものは何もない。川岸の草原に紅葉の葉が散りつもり、霜が白く輝く朝、遣水から水蒸気が立つことほど驚くことはない。年の瀬がせまり、人々が新年の準備で急いでいる頃もまた趣きがある。驚嘆するものとして見る人もいない寒さに凍り付いた澄み切った月、二十日過ぎの空にはどこか心細いものがある。清涼殿では三世諸仏の名を読み上げて一年の罪障を払う法会、御仏名(おぶつみょう)が行われ、諸陵墓に奉幣する荷前(のさき)の使(つかひ)が出発するなどと身の引き締まるお思いがする。公の行事がいくつも執り行われる。新春の忙しい時に重ねて行われるさまほど大事なことはない。十二月の晦日、宮中で行われる鬼祓いの儀式、追儺(つゐな)より正月元旦の早暁、天皇が清涼殿の前庭で天地・四方・属星・山陵を拝し、五穀の豊穣、天皇の位がいつまでも続くよう祈る四方拝(しほうはい)に続く時期こそ意義深い。晦日の夜、真っ暗の中に松明を灯して夜中過ぎるまで人家の戸を叩き、走り、歩いて何事であるかのように大業に大声をあげる。足が空に惑うかのようだ。明け方になるとさすがに静かになっていくことこそ、年の名残も心細く感じられる。亡くなった人の亡霊が訪ねて来る魂(たま)祭は、このごろ都では行われなくなってきているが関東地方ではまだ行われていることに意味深いものがある。

 芭蕉が季節の言葉、季語を発見した。万葉の時代から季節の言葉はあった。大伴家持は春愁三首といわれる季節の歌を詠んでいる。
「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも」、
「我がやどのい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」、
「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しもひとりし思へば」と春の愁いを詠んでいる。「春愁」を発見したのは大伴家持のようだ。しかし「春愁」が春の季語として定着するのは芭蕉以後のことだ。
 和歌は確かに季節を詠っている。しかし季節を詠うことが和歌ではない。「春の愁い」は和歌を詠むことによって発見された。和歌を詠むことなしに「春愁」を発見することはなかったであろう。
 家持は一人、春の日に言葉を苦吟していた。自分の気持ちを分かってくれる友人や知人、家族がいないことに苦しんでいた。なぜこんなに苦しんでいる私の気持ちが分かってもらえないのかと嘆いていた。その気持ちが言葉になった。春の野を眺めていると霞がたなびき、私の気持ちを誰にも分ってもらえない悲しみがふつふつと湧きあがってきた。春の日永の夕日に鶯が鳴いている。鶯が鳴けば鳴くほど私の気持ちは哀しみでいっぱいになる。春は何かをしたいという思いが強くなる季節だ。したいと思っていることをまわりの人に言うと皆、黙って聞いていてくれるが目が輝く人は誰もいない。私はこの世にただ一人きりなのだという思いが胸に迫ってくる。この苦しい気持ちを言葉にしたものが歌だった。
 大人になった若者が世の中に出ていくのが春と言う季節だ。大人の世界に入った若者の心の中には自分は一人きりだという思いが強くなる季節が春だ。それは大伴家持の生きた万葉の時代も今も基本的に変わることはない。大伴家持は春の愁いを言葉にしたことによって「春愁」を発見した。
春愁はそれぞれの時代の歌人たちによって詠い続けられてきた。そのことによって「春愁」という季題の意味が豊かになった。この豊かな意味内容を継承し、季語として定着させたのが芭蕉に始まる俳諧の発句を詠んだ俳人たちである。江戸、元禄時代以後、皇族や武士に独占されていた言語文化を農民や町人たちが継承することによって季節を表現した言葉を農民や町人の言葉として換骨奪胎したものが季語である。
和歌が表現した季節の表現と俳諧が表現する季節の言葉は本質的に違っている。和歌の言葉は貴族や武士の言葉であるのに対して俳諧の言葉は農民や町人の言葉である。
「春愁や恥ずかしながら腹がへり」。この句は『万葉集』以来の和歌が培ってきた季節を表現した言葉と同じ言葉ではない。俳諧の伝統の上に詠まれている俳句なのだ。日々の暮らしに追いまくられる庶民には「春愁」はない。