徒然草173段 小野小町が事
原文
小野小町が事、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造」と言ふ文に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。
現代語訳
小野小町の事は、はっきりわかっていることがない。老いてからのことが「玉造」という文書に書いてある。この文書は三善清行が書いたものだという説があるが、高野大師の御作の目録に入っている。大師は承和の初めに亡くなられている。小町が生きていたのはその後の事である。だからはっきりしたことではない。
我が闘病記4 白井一道
新しい場所に市立病院は名称を変え、建て替えられた。「市立医療センター」として新築された。20年ほど前、母が入院した時とは、すべてが様変わりをしていた。以前と比べて病室が幾分広いように感じられた。私が入院した病室は五階の東南の隅の病室だった。私のベッドは窓際にある。深夜遠くに聞こえる救急車のサイレンが聞こえる。このサイレンの音が徐々に小さくなり、聞こえなくなる。カーテンを捲ると救急車が静かに「市立医療センター」に入って来る。あの救急車にはどんな病人が乗せられているのかと想像してしまう。今夜はもう三台目だな。この病院はこの地域の救急指定の病院のようだ。私の入院期間は2週間だと入院する際に医者に言われたと妻から聞いた。この通り私は二週間に入院し、退院させられた。私の入った病室は四人部屋だった。一人一人ベッドがカーテンで仕切られており、ベッドに寝たまま、隣の病人と気軽に話ができるような雰囲気はない。隣のベッドの患者がどのような病なのか、全然分からない。ただ黙って静かに寝ているだけである。ただ驚いたことに一人一人にテレビが見られるような設備が整っていたことだ。ただ二千円ほどの札を入れると電源が入る仕組みになっていた。一度お金を入れると24時間ほどテレビか見られる仕組みになっているようだった。私は一度もテレビを見たいと思ったことはない。病の事、これからの事などをとりとめもなくなく、考えていると一日一日が過ぎていく。退屈することがない。私には身体的な苦痛があるわけではない。
朝、診察に行った隣のベッドの病人が身のまわりの片付けを始めた。午後になると五十代後半の女性がやって来た。「これはどうするの。処分してしまっていいの。持って帰るの」と聞いている。母親のようだ。独身の男が入院していたようだ。一週間近く、隣のベッドに寝ていたが、一度も話をしたことはない。慌ただしく入院していた時の荷物の片付けが済むと何の挨拶もなく、病室から出て行った。翌日になると私の向かい側のベッドの病人がごそごそ荷物の片付けを始めた。この方とも入院中、一度も会話を交わしたことはなかった。忙しく、病室から出て行ったかと思うと帰って来て、片付けを初めて、昼食をとることもなく、誰も来ることもなく、一人で誰にも挨拶することなく出て行った。退院者がいなくなり、数時間すると何人もの看護師さんたちが慌ただしくベッドを取り換え、新しい入院患者を迎える準備をする。小一時間で準備が終わるとまもなく新しい患者が入って来る。どんな患者さんなのか、興味が湧く。耳を澄ましていると若者のようだ。母親の声がする。ひととき、にぎやかだったのが突然静かになり、夜の静寂が訪れる。看護師さんが回って来て、血圧を測っていく。どんな患者さんが入院してきたのか、興味があるが、聞くことはしない。聞きたいと思って聞いたところで看護師さんは何も言わない。だから私は何も聞かない。大学生のような若者は二日入院して三日目に退院していった。どのような病だったのか、私には何も分からない。その若者が退院するとまもなく一人の老人が若者の後に入院してきた。トイレに行く際、そのベッドの脇を通った際に、私は新入りの患者さんに挨拶した。「今日、外来で検診に来たんですよ。すると医者が入院だと言われましてね。私は脳梗塞でここに二カ月前、ここに入院していたんですよ。数値が悪いから調べることになりましてね。再入院ですわ」とニコニコしながら話した。この老人は二日ほど、入院していたが、すぐ退院していった。脳梗塞だと言っていたがどこがどうなっていたのか、全然わからなかった。ただ厳しいリハビリ専門の病院に通い、体を動かしていると話していた。このような会話をしたのは初めてのことであった。