醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1355号   白井一道

2020-03-16 10:30:06 | 随筆・小説



   
徒然草第179段入宋の沙門



原文
  入宋の沙門、道眼上人、一切経を持来して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、殊に首楞厳経(しゆれうごんきやう)を講じて、那蘭陀寺〈ならんだじ〉と号す。
 その聖の申されしは、那蘭陀寺は、大門北向きなりと、江帥(がうぞっ)の説として言ひ伝えたれど、西域伝・法顕伝などにも見えず、更に所見なし。江帥は如何なる才学にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺は、北向き勿論なり」と申しき。

現代語訳
 中国留学帰りの僧侶、道眼上人は一切経を持ち帰り、京都、六波羅の辺りのやけ野というところに安置し、殊に首楞厳経(しゆれうごんきやう)を講じて那蘭陀寺〈ならんだじ〉と号した。
 その僧侶が申されたことによると、「那蘭陀寺は、大門が北向きに造られていると大江匡房(おおえのまさふさ)卿太宰権帥(だざいのごんそつ)の説として言い伝えられているが、西域伝・法顕伝などにも見えず、それ以上の所見はない。大江匡房(おおえのまさふさ)卿太宰権帥(だざいのごんそつ)は如何なる事を学び、このような事を申されたのか、考えられないことだ。中国の西明寺は北向きに造られていることは当然なことである」とおっしゃっている。
  我が闘病記9  白井一道
 私が入院した病棟には「ホスピタリティー」とガラス窓に書かれたところがあった。その部屋から出入る医師や看護師、入院患者を二週間の間、一度も見かけることがなかった。ガラス窓から中を覗き見ることができたが人のいる気配を感じたことはなかった。いつも施錠されたままであった。中にはピアノが置いてあった。部屋の中はまるでクリスマスのような飾りつけがされていた。
 終末期の医療は精神的な緩和ケアが中心になっているのかなと勝手に想像していた。ある時、懇意になることのできた看護師さんに常時入院されている患者さんはいるのかなと聞いてみた。「いますよ。退院していく方もいますよ」との答えだった。退院していく人はすべて亡くなった患者さんなのかなと想像していたがそうではなかった。緩和ケアが中心だということなのかもしれない。それ以上聞くことが憚られた。
 毎日夕方になると夕食前に私は五階の病棟を一周した。一周、およそ200歩、三周するのを日課にしていた。私と同じように歩き回る患者がいた。話したことはないが、私と同じ気持ちが歩いているのかと勝手に想像していた。三回、ホスピタリティーと書かれたガラス窓の前を歩いた。その度になんとなく中を覗いてみても一度もその中に人がいるのを見かけたことがない。終末期医療を施す施設が整っているのだなぁと思って通り過ぎて行くだけである。私もいつかこのような場所に入ることがあるのかなと想像すると嫌な気持ちになった。
 死が身近なものだと感じるようになって数年が立っている。定年退職後、親しくしていただいたKさんは自宅のソファーに座ったまま、亡くなった。娘さんが使いから家に帰ると亡くなっていたという話だった。彼のお奥さんは癌で数年前に亡くなっていた。やはり定年退職後、数年間日本酒を楽しむ会を一緒にしていたмさんは奥さんと翌日には日光へのハイキングを予定していた朝、奥さんが目覚めてみるとмさんは亡くなっていたという。初めて奥さんから電話をいただき、知った。美味しい日本酒を一緒に楽しんだ仲間が何人も亡くなっていった。私と幾つも年の違わない友人たちが亡くなっていった。そのようなことがあっても死が自分の事として自覚することはなかった。しかし脳梗塞を患ってみて初めて死が間近なものであることを感じ始めている自分がいることを知った。
 私たち夫婦には子供がいない。他人様のお世話にならざるを得ない。迷惑をかけざるを得ない。最小限度の迷惑にしたい。そんな気持ちである以上、私の葬式はできる限り質素にしたい。墓石など必要ない。院号居士など必要ない。遺骨は海に散骨してもいいし、樹木葬などでもいい。そんなことを漠然と考えていると夜中に目が覚めて、いつまでも眠れなくなってくる。死が近づくということはこのようなことなのかもしれない。私の父はどんな気持ちが亡くなって行ったのか、今まで考えたこともないような事を思ったりするようになった。ああ、それもこれも脳梗塞を患った結果なのかもしれない。しかし不思議なことに恐怖心はないのだ。