醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1364号   白井一道

2020-03-28 07:22:34 | 随筆・小説



   
徒然草第188段或者、子を法師になして



原文 
 或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿(こし)・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習うべき隙なくて、年寄りにけり。

現代語訳
 或る者が子を法師にして、「学問をして因果応報の理を学び、説経などをして生活の糧にしてはどうか」と言われたので、教えのままに説経師になるため、まず馬に乗る事を習った。輿(こし)や牛車を持つ身ではなかったので、導師に招かれた時、馬などが迎えに使われることもあるやに思い、馬に乗るのが下手で落ちるようなことがあってはならないと考えた結果だった。次に仏事の後、酒などが勧められることもあるであろうと、その際、法師が何の芸もない下戸であっては旦那様が心寂しく思うであろうと、流行り歌を習った。この二つの技がようやく身に着いたので、いよいよ準備が整ったと思った頃になると説経を習う時を失い、年老いてしまったという。

原文
この法師のみにもあらず、世間の人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をも附き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑に思ひて打ち怠りつゝ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるゝ齢ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へ行く。

現代語訳
 この法師ばかりではなく、世間の人には皆、このようなことがある。若い時ほど、いろいろなことにつけて、身を立て、大きな事をも成し遂げ、能力も着き、学問をもしようと、しばらくの間、計画することの数々を心中に持ってはいるものの、毎日を平穏に過ごし怠りがちになり、まず差し当たり目の前のことに紛れて、月日を送っていると事々を成し遂げることなく身は老いてしまう。ついに物の上手になることもなく、思い描いたような身にもならずに、後悔はしても取り還されるような年齢ではないので、走って坂を下る輪のように衰えて行くだけだ。

原文
 されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。

現代語訳
 であるから、一生の中で何より大事な事の中で何が一番大事なものかと思い比べ、第一の事を決め、その他のことは考えることをやめて、第一の事に励むべきだ。一日の中、一時も数多の事が頭に思い浮かぶことのないうちに少しでも役に立つことに励み、その他の事は打ち捨てて大事な事に集中すべきだ。何もかも捨てられずに心に残っていては一事をも成し遂げることはできない。

原文
例へば、碁を打つ人、一手も徒らにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石に就くことは易し。十を捨てて、十一に就くことは難し。一つなりとも勝らん方へこそ就くべきを、十まで成りぬれば、惜しく覚えて、多く勝(まさ)らぬ石には換へ難し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。

現代語訳
 例えば、囲碁を打つ人は、一手も緩めることなく、相手より先に小を捨て大を大事にすることだ。そのことについて、三つの石を捨て、十の石を取ることは易しい。十を捨てて十一の石を取ることは難しい。一つの石であっても勝ちになる方をとるべきなのに十もの石になると惜しくなり、数多くの石には換え難いものがある。これをも捨てず、かれをも得ようとする気持ちににり、かれをも得ず、これをも失うことになる。

原文
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山へ行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠(けたい)、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

現代語訳
 京に住む人が急ぎの用が東山にあり、既に東山に行き着いていたとしても、西山に行った方が良かったと思い立ったなら、東山より引き返し西山に行くべきだ。「ここまで来てしまったからには、この事をまずやっておこう。何日までにと決められた事ではないから、西山の事は帰ってまたそこで思い立ったことでいいや」と思うから、一時の怠けが即ち一生の怠けになる。この事を恐れるべきだ。

原文
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷(いた)むべからず、人の嘲(あざけ)りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮(とうれん)法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難う覚ゆれ。「敏き時は、則ち功あり」とぞ、論語と云ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

現代語訳
 一つの事を成し遂げようと思うなら、他のことが思うようにできなくとも気にせずに、他人から嘲られようとも恥じることはない。万事の事より一事の事を大事にすることなしには一事を成し遂げることはできない。数多くの人の中で、或る者が「ますほの薄をまそほの薄などと言う事がある。渡辺に住む法師がこの事を伝え知っている」と語ったことを登蓮(とうれん)法師はその場所にいて、聞いて、雨が降っていたので「蓑や笠があったら、貸してくれないか。かの薄の事を習いに、渡辺の法師のところに聞きに行きましょう」と言ったので「とんでもない。せっかちだ。雨が止んでからのことだ」と誰かが言われたので「お前こそとんでもないことをおしゃられることだ。人の命は雨の晴れ間を待つようなことはあるか。私も死に、法師も亡くなられれば誰に尋ね聞くことができるのだろうか」と言って、走り出て行って習った事でありますと申し伝えたことこそ、恐れ多くも有難く思われた。「機敏に行えば、仕事の成功がある」と、論語という文書にもある。この薄を登蓮(とうれん)法師が不審な所を知りたいと思ったように一大事の因縁を考えるべきだった。


 我が闘病記18  白井一道
 朝、五時には歩き始める気持ちになった。このような気持ちになったのも初めての経験であった。ただ歩きたいのだ。季節は五月、朝の空気が美味しいのだ。私は脳梗塞の病を持つ病人だという意識が無くなっていた。朝の空気が気持ちいいのだ。古利根川に出ると毎日のように川沿いで出会う女性に出会った。私は「おはようございます」と挨拶していた。女性は黙って私の脇を通り過ぎて行った。翌日もまた古利根川のウォーキングロードで出会った。私が挨拶をするとその女性もまた挨拶をしてくれるようになった。それが嬉しかった。挨拶を交わす。一言の挨拶が人と人の距離感が縮まっていく。そのような気持ちになった。早朝ウォーキングには仲間がいる。そのような仲間意識が生れて行くことを私は感じていた。