醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1350号   白井一道

2020-03-11 14:37:29 | 随筆・小説



    徒然草174段 小鷹によき犬



原文
 小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大に附き小を捨つる理、まことにしかなり。人事(にんじ)多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、実の大事なり。一度(ひとたび)、道を聞きて、これに志さん人、いづれのわざか廃れざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

現代語訳
 小鷹狩りに良い犬を大鷹狩りに使うと小鷹狩りには悪くなるという。大きなものを大事にして小さいものをおろそかにする理屈、まことにそのとおりだ。多くの人の営みの中で、仏道を楽しむことほど味わい深いものはない。この事はまことに大事なことだ。一度(ひとたび)、仏道の話を聞き、この道を志す人は、どういうわけは分からないが、仏道以外のことに関心をなくし、何事かを始める。愚かな人であっても、賢い犬の心に劣ることはない。

 我が闘病記5  白井一道
 新しい「市立医療センター」に入院し、初めて目にし、経験したことがある。それは若い男の看護師がいたことである。看護職に男性が採用されるということをニュースでは知っていたが、直に接したのは新しい市立病院に入院した時が初めてだった。
 女性の看護師さんに交じって男性の看護師さんがいることに違和感を覚えることはなかった。入院患者にとって医療関係者と接する時間は圧倒的に看護師さんとの方が長いし、回数も多い。男女の隔てもなく、対等に接している看護師さんたちを見ていて、ごく当たり前なものとして私は受け入れることができた。しかし、女性の看護師さんと男性の看護師さんとでは、患者として接し方が違ってくるということを感じた。深夜、男性の看護師さんがベッド脇に来て、身に着けている心電図を測る器具を直されるときなど、女性の看護師さんの方がいいなぁーと感じたことがあった。女性の看護師さんであっても男性の看護師さんであっても人によるのかもしれない。
 男性の看護師さんと女性の看護師さんとでは会話が大きく違ってくることがある。当たり前のことである。女性の看護師さんには話せないようなことを男性の看護師さんと話したことがある。看護師さんは実に忙しい。その合間を縫って私はある男性の看護師さんに話しかけた。私の話を聞いてもらえるかと。時間の余裕がありそうな時に尋ねてみた。彼はいいですよと、言った。
 私は脳梗塞になった時に自分がどこにいるのかが分からなくなった。私は今どこにいるのかが分からなくなった。周りに見える街はすべてが全く知らない場所であった。初めて見る景色であった。自転車の乗っているのを危険だと思い、自転車を引き、歩き出した。どこを歩いているのかが分からない。この世界に私は一人っきりだという思いが胸いっぱいになる。この孤独感が耐えられない。この孤独に耐えてただひたすら歩く。この経験から人間とは記憶に支えられている。記憶を失うと自分が人間であるという認識がなくなる。人間は記憶に支えられている。記憶が自分は人間だと認識を支えている。人間にとって記憶と言うものが決定的に大事なものだということを脳梗塞という病を得て私が実感したことなんだということを男の若い看護師に聞いてもらった。「なんか、白井さんの話は哲学的ですね。話していることは分かりますが、申し訳ありませんが、ただそれだけですね」と男の若い看護師は言った。「まだ、この続きがあるんだ。聞いてもらえるかな、時間のある時でいいから」と私が言いうと、「いいですよ」とは言ったが二度と私の話を聞いてもらう機会はなかった。一度、話しかけてはみたが、時間がないと断られた。女性の看護師は私のどうでもいいような話など、耳を傾けて聞いてくれそうな看護師はいなかった。
 私は気が付いたことがあった。徘徊をする老人のことだ。記憶が薄れていくと今自分のいるところが自分のいるところではないと感じてしまう。自分のいる場所はここではない。どこにあるのか探し始めてしまう。見るところ、初めて見る景色だ。私がいた場所はどこなのか、探し始めて、歩き出す。行けども行けども私が知っている場所に行く着くことができない。不安と恐怖に恐れながら、ただ歩き続けることに安心感を感じて歩き続ける。日暮れて来る。夜が怖い。早く自宅に帰りたい。自宅はどこにある。探し求めてもどこにもない。記憶を失うと自宅を自宅だと認識できない。このことが徘徊を生む。