徒然草第181段降れ降れ粉雪、たんばの粉雪
原文
「『降れ降れ粉雪(こゆき)、たんばの粉雪』といふ事、米搗(よねつ)き篩(ふる)ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣(かき)や木の股に』と謡〈うた〉ふべし」と、或物知り申しき。
昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記(にき)に書きたり。
現代語訳
「『降れ振れ粉雪、たんばの粉雪』と言う事は、米搗き、篩うことに似ているから粉雪゜という。『たンまれ粉雪』と言うべきなのを間違って『たんばの』と言うようになった。『垣根や木の股に』と謡うべきだ」と、或る物知りが申していた。
昔から言われていたことだ。鳥羽天皇が幼かったころ雪が降るのを見ておっしゃられたという。讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記に書かれている。
わが闘病記11 白井一道
中年の女性医師が若い男の研修医を二人連れて私のベッド脇に来た。家内の都合をあらかじめ聞いていた私は医者の来るのを待っていた。女性の医師が言った。「いつ退院する。週が明ける前でも、後でもいいよ」。私は日曜日でもいいですか。と聞いた。「朝ごはんを食べて退院するの」と医者は言った。「昼ご飯を食べて退院してもいいですか」と言った。「それでもいい」と女性医師は言った。研修医がノートしていた。医師たちが部屋から出て行った。それ以後、医師が私のベッド脇に来ることはなかった。明くる日、トイレに行った際、ナースセンターの脇のパソコンコーナーに主治医がいるのを見た。私はその医師に問いかけた。「先生、退院後のことについて
お聞きしたいんですが」と言うとその医師は私をパソコンの脇に私を呼び、私の脳内の写真を映し出し、この部分が死んでしまった部分だ。だから視野欠損したところだ。退院後は罹りつけ医の先生の指導に従って、薬をきちんと飲む。自動車の運転はできないよ。自転車も無理だな。まぁーね歩くことだな。「先生、私は身体障碍者になったということですかね」と言うと、「片方は見えるわけだよね。そんなものじゃ、身体障碍者だと言えないね。右側が見え難いのは分かるがね。国の決まりで視野欠損だけでは、身体障碍者の申請はできないんだ。法律でそのように決まっているんだ。もし疑問があるなら、眼科で聞いてみるがいい」と実に素っ気ない話だった。この医師からは何も聞くことがないと私は思い、頭を下げて、医師から離れた。医師は私が離れると同時にパソコンから離れ、いそいそと出て行った。二週間入院し、主治医と直接このような会話を交わしたのは初めてであった。
血圧測定に来た看護師さんに退院の日が決まったと話した。「そうなの。良かったじゃない」と言ってくれた。「入院費用はどのくらいになるのか。教えてもらえないかな」と言うと「分かった。事務に連絡しておくわ」と。事務員だとすぐわかる服装をした女性が二人、私のベッド脇に来た。11万円弱だと教えに来てくれた。付き添っている付属品のような女性職員は何も言わず、むっつり黙ったままだ。
退院の日を迎えた。私は携帯電話で家内に連絡した。退院の準備はできていると言うと家内の若い友人が車を運転し、迎えに来てくれるということになった。私は看護師さんに退院の手続きのようなものがあるのかと聞いてみた。何もないということであった。忘れ物のないようしてもらうことだけよと、看護師さんは言った。脇にいた男の看護師さんが白井さんの担当は私ですから、ベッド周りの確認は私がします。エレベーターまでですけれども、見送りさせていただきますとのことだった。実にあっさりしたものだった。
入院中、仲良くしていただいた新井さんに挨拶した。「良かったね。私も退院したら、連絡するよ。白井さんの家は私の家から街中にいく際に通る道際にあるみたいだから、寄らせてもらうよ」とニコニコしながら言ってくれた。新井さんは私が入院する前から既に入院していた。私が退院してもまだ新井さんは入院したままであった。私が退院の準備をしているとき、リハビリ室に付き添われて行った。
私は妻がやって来るのを待っていた。私は入院した時に身に着けていたものを着て、大きな紙袋に着替えのものやタオルや歯ブラシ、石鹸など忘れ物のないことを確認し、妻の来るのを待った。