徒然草177段 鎌倉中書王にて
原文
鎌倉中書王(かのくらのちゆうしよわう)にて御鞠(おんまり)ありけるに、雨降りて後、未(いま)だ庭の乾かざりければ、いかゞせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道(ささきのおきのにふだう)、鋸(のこぎり)の屑を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭(ひとには)に敷かれて、泥土(でいと)の煩ひなかりけり。「取り溜(ため)めけん用意、有難し」と、人感じ合へりけり。
この事を或者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子(すなご)の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異様の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。
現代語訳
鎌倉中書王(かのくらのちゆうしよわう)、宗尊親王〈むねたかしんのう〉の邸で蹴鞠の会が催された際、雨あがりの後、未だ蹴鞠場が乾いていなかったので、どうしたものかと思案していると、佐々木隠岐入道(ささきのおきのにふだう)が鋸(のこぎり)で木材を切ったおが屑を車に積み、たくさん持ってきてくれたので、そのおが屑を蹴鞠場にまき敷きて、泥土の災いを防ぐことができた。「おが屑を取り置き、災いへの用意、有難いことだ」と、参加者は感謝した。
この事を或る者が話し始めたところ、吉田中納言は、「乾いた砂の用意がなかった」ということなのかとおっしゃっると恥ずかしいことだという。有難いと思った鋸の屑は賤しいものであり、それをまいたとは、異様なことだ。蹴鞠場を管理する人は乾いた砂を用意しておくことが昔からの慣例なのだ。
我が闘病記7 白井一道
入院し、私は一人の友人を得た。私の病室は5階東の端にあった。外に出ることはできなかったが、緊急時には外に出られるように戸が付いていた。戸の上半分が素通しのガラスになっていた。私が入院したのは四月後半であった。晴れた日には朝日が戸に上のガラスが眩しい光が射している。その日向ほ求めて二、三人の患者たちがたむろしていた。私もその中に入れていただき、「いい季節になりましたね」とその中の一人に話かけた。彼はこんないい季節に病院暮らしじゃ詰まりませんねと、言って話し始めた。「私は脳梗塞の視野欠損で入院しています」と言うと彼は「私はラリルレロの言葉が上手に話すことができなくなってしまいました」と脳梗塞の言語障害だと言われていますと自分の病状を説明した。「あぁー、それで市立病院に検診にきたのですか」と私が聞くと、「私は一人で決断し、救急車を呼びました。その結果、救急車がこの病院に私を運んでくれました」と市立医療センターに入院した事情を説明してくれた。「私は白井と言います。私は定年退職後、名刺を持っていませんので」と言うと、彼は懐から財部を取り出し、その中から一枚の名刺を取り出し、私てくれた。名刺には新井健治とあった。
「新井さん、お早うございます」と朝食後、廊下に出ている新井さんに挨拶をする。「今日の具合はどうですか」と尋ねてくれる。「まぁーまぁーですね」と。「らりるれろ、言えるようになりましたか」。「らーりーるーろ」などと言う。「脳梗塞は脳梗塞でも最も軽そうな脳梗塞ですね」。何回も、何回も、新井さんは「らりるれろ」と、練習する。年齢は80を超えていると言っていた。会話が途切れるとベッドに戻っていく。私も自分の病室のベッドに戻っていると血圧を測る時間だ。看護師さんが車に乗せたパソコンを押し、ベッドを回り、血圧を測っていく。私の血圧は上がいつも140代であった。新井さんの血圧がどのくらいなのか、聞いた事はなかった。ただ一度だけ、看護師さんが一緒にいた時、新井さんが入院してきたとき、血圧が180代だったわよねと看護師さんは言った。何かのはずみで普段なら、決して口にしない患者の情報を口にしてしまったようだ。
気さくな新井さんは誰とも親しく話をしていた。同室の患者さんとも仲良くいつも話していた。その方は毎日、病室で自分の名前と住所を書く練習をしているということであった。その方は自分の名前を書くことはできるが、住所を書くことが難しいというような事を言っていた。アパートに一人暮らしをしていたところ、おかしくなり、友人に助けられて市立医療センターに入院してきたという話であった。もうとっくに定年退職し、年金のみで生活しているという話であった。そういう点では私と同じ境遇の人であった。