醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1397号   白井一道

2020-05-02 09:44:55 | 随筆・小説


   世界史から学ぶ 『感染症』 



 神田神保町古本屋街を通って目指す映画館「岩波ホール」へ急いでいた。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ルードヴィヒ・神々の黄昏』を見たい気持ちでいっぱいだった。あれはもう何年前のことだろう。1980年代の初めごろのことであるからもう40年近く前のことになる。ミュンヘン、ノイスバンシュタイン城の雪景色が今も瞼に残っている。ワーグナーの音楽、「ニーベルンゲンの指輪」が奏でられている。音楽と映像が滅びゆく貴族の無常に時間を忘れ、魅入られた。
 バイエルンを中心とする南ドイツ諸邦はプロテスタントが中心のドイツにあってカトリック勢力が強い地域であった。普仏戦争に勝利したプロイセンはフランスのカトリック勢力下にあったバイエルンを中心とする南ドイツ諸邦を併合し、1871年にドイツ帝国が成立する。
 バイエルンの中心都市ミュンヘンはビールの街でもある。世界最大のビール祭りオクトーバーフェスト2020は開催中止になったという。コロナウィリスの世界的蔓延がミュンヘンのビール祭りを中止に追い込んだ。ドイツ人がお茶代わりに普段に楽しむ飲み物がビールになったのにはそれなりの歴史がある。14世紀、ペストの大流行があった。このペストの大流行がドイツ人にビールという飲み物を授けてくれた。ペストの大流行は当時のヨーロッパの人々の命をおよそ2500万人奪ったと言われている。恐ろしい疫病である。ヨーロッパで猛威をふるったペストは、放置すると肺炎などの合併症によりほぼ全員が死亡し、たとえ治療を試みたとしても、当時の未熟な医療技術では十分な効果は得られず、致命率は30%から60%に及ぶ。イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街や村もあったという。
 不思議なことにビールを醸造し、ビールを飲んでいる村々ではペストで亡くなる人が少ないことに気付く。ビールはペスト菌を防ぐ魔法の飲み物だと当時のドイツ人たちは考えるようになっていった。当時のドイツの人々にとってビールはペストに打ち勝つ飲み物になった。こうしてドイツ人はビールを日本人にとってのお茶のような飲み物になっていった。
 また14世紀は封建反動と言われている時代である。自給自足経済社会であったと言われている中世ヨーロッパ世界で三圃式農法が普及すると余剰生産物が増え、商業が復活してくる。聖地巡礼の熱情が高まると共に地中海交易が始まり、十字軍戦争に勝利するようになると縮こまっていたヨーロッパ中世世界が膨張し、今まだ圧倒されていたイスラム世界を押し返すような形勢になった。これは同時にヨーロッパ中世世界の覇者であった荘園領主たちが貧困化していく過程でもあった。貧困化していく荘園領主ちは農民に対する徴税の強化することによって貧困化を防ごうとした。そのような時代を封建反動の時代と言われている。このような時にペストが猖獗を極めたのである。農民たちは領主による厳しい徴税のために体力が奪われていた。商業の復活はアジアからやって来る帆船に乗って感染症もまたヨーロッパにやって来た。そうした感染症の一つが鼠が媒介するというペストであった。ペストに罹患すると感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になるため黒死病と言われた。
 中世ヨーロッパが自給自足経済から商業が復活し、貨幣経済が普及する。アジアとの交流が隆盛すると感染症としてのペストもまた全ヨーロッパ世界で流行した。その結果、数千万人の人々が命を失った。アメリカを中心にした資本主義世界が全盛を極め、新自由主義経済が全世界に大きな影響を与え、グローバル経済が中国、ロシアを含め、世界の一体化が進んだ結果、感染症もまた全世界的な規模なものになった。その一つがコロナウイルスなのかもしれない。新自由主義経済は社会インフラとしての医療を削減した。福祉は無駄遣いだと小さな政府の実現を図った。その結果、コロナウイルスとの戦いに先進資本主義国と言われる国々では苦戦を強いられているようだ。中国やロシアを含んだグローバル経済であるが故に中国,武漢で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に全世界に蔓延することになった。
 ペストの流行がまず貧しい国々、貧しい人々の命を奪って行ったように、21世紀の世界的感染症としての新型コロナウイルスもまた貧しい国々、貧しい人々を犠牲にしていくことだろう。世界で最も豊かな国だと言われているアメリカにあってはニューヨークの貧しい地域に住む人々の命が次々と奪われているとニュースは伝えている。社会のライフラインを支える人々の命が奪われることは危険だ。