徒然草第232段 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり
原文
すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱(ぢゆう)の一つ落ちたりしかば、「作って附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ひしゃく)の柄ありや」など言ふを見れば、爪(つめ)を生(お)ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。「柄杓の柄は、檜物木(ひものぎ)とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人仰せられし。
若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。
現代語訳
何事においても人間は無知で無能でいる方がいい。ある人の子が、すがた格好はまあまあだが、父の前で、人と話し合う折、歴史書から文章を引用し、賢しく見えるけれども、目上の人の前ではそのような事はしなくともいいのにと思えたことだ。また、ある人の下で琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたところ、柱(ぢゆう)の一つが欠けていたので「新しく作って琵琶に付けよ」というとそこにいた男の中の一人が、卑しくもなさそうなその男が「使い古しの柄杓の柄がありますか」などと言うのを聞き見ると爪が長く伸びている。琵琶を弾いているからなのだな。盲法師の琵琶は、そのような処置をするまでもないことだ。琵琶の心得があるのかと思いきや、聞くに堪えないものであった。「柄杓の柄は檜物に使う木とかいって、琵琶の柱に適したものではない」とある人が言っておられた。
若い人は少しの事で良くも見え、悪くも見えたりするものだ。
琵琶法師について 白井一道
琵琶法師(びわほうし)は、平安時代から見られた琵琶を街中で弾く盲目の僧。琵琶を弾くことを職業とした盲目僧の芸人で、平安時代中期におこった。
日本の琵琶は古代のアジア大陸よりもたらされたものであるが、その系統には中国から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽(雅楽、芸術音楽)と、それと同時代ないしそれに先んじてもたらされた声楽の琵琶楽(盲僧琵琶、宗教音楽)との2つがある。琵琶法師は、後者に属し、宗教音楽としての盲僧琵琶を担った。なお、盲人の琵琶法師(盲僧琵琶)から宗教性を脱した語りものを「くずれ」という。
仏説を語る琵琶法師は天台宗などに属する低級の宗教者であり、仏説座頭、地神経座頭などと呼ばれ、地鎮祭や竈祓いで地神経や荒神経を行った。仏説座頭の活動範囲は後述する平家座頭に比べてあまり広くはなかった。
鎌倉時代には『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成した。この時代には、主として経文を唱える盲僧琵琶と、『平家物語』を語る平家琵琶(平家座頭)とに分かれた。琵琶法師のなかには「浄瑠璃十二段草子」など説話・説経節を取り入れる者がおり、これがのちの浄瑠璃となった。
平家座頭はその当初から廻国の芸能者であり、中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名の屋敷のあいだを芸を披露して回った。絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
天台宗系の九州の寺院で法要琵琶を演奏した盲僧たちは,この当道盲人と対立し,江戸時代初めまで軋轢を繰返した。江戸時代には,幕府の当道保護政策もあって,当道盲人は京都の職屋敷と江戸の惣録屋敷の支配下におかれた。彼らは平曲以外に三味線音楽や箏曲も扱い,また,鍼灸その他に従事する者もあったので,琵琶法師というイメージは,それらのなかの中世以来の琵琶弾奏の放浪芸能者からのみ与えられるにいたった。平曲演奏家は幕府および諸大名から厚遇され,いわゆる放浪芸能者としては,実際にはほとんど存在しないようになった。明治4 (1871) 年当道制度の廃止後,平曲は急激にすたれ,その演奏家も激減した。一方,九州の盲僧は,ごくわずかながら法要以外に門付芸能としての琵琶弾奏も行なって現在にいたっている。
ウィキペディアより