徒然草第226段 後鳥羽院の御時
原文
後鳥羽院(ごとばのゐん)の御時(おんとき)、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者(くわんじや)と異名(いみやう)を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんくわしやう)、一芸ある者をば、下部(しもべ)までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しやうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊(こと)にゆゝしく書けり。九郎判官(くらうはうがん)の事は委(くわ)しく知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのくわんじや)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。
現代語訳
後鳥羽院の時代、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)の学問の名声は高かったが、漢詩の問題点について、天皇の前で論議する席に招かれ、七徳の舞を二つ忘れてしまったので五徳の冠者(くわんじや)とあだ名を付けられたのを苦にして学問を辞め遁世したことを慈鎮和尚(じちんくわしやう)は一芸ある者をと思い、下僕まで抱えさせて、不便のないようにと、信濃入道行長の面倒をみられていた。
この行長入道が平家物語を作り、生仏(しやうぶつ)という盲目の者に教えて語らせた。さて、比叡山延暦寺の事は特に素晴らしく書いた。九郎判官(くらうはうがん)義経のことは詳しく調べて書き載せた。源範頼のことはよく分からなかったので、多くの事々を書き漏らしている。武士の事や弓馬の技は生仏が東国の者であったので、武士に聞いて書いている。かの生仏の生まれつきの声を今の琵琶法師は学んでいるのだ。
『平家物語』について 白井一道
作者について『徒然草』の作者、吉田兼好法師は、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたと書いている。その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したこと、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなどと記述している。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している。
そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。
現存している諸本は、次の二系統に分けられる。
盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するものと読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のものである。
明治維新後は江戸幕府の庇護を離れた当道座が解体したため、平曲を伝承する者も激減した。昭和期には宮城県仙台市に館山甲午(1894年生~1989年没)、愛知県名古屋市に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけとなり、しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。2018年、三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけである。 ウィキペディア参照