醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1422号   白井一道

2020-05-28 10:36:08 | 随筆・小説


 ほぼ一年をかけて『徒然草』を読んだ。定年退職後の楽しみとして取り組んだ。どうにか、毎日古文を眺め、読み、味わって読んだ。いつしか同時代の人が書いた文章として読んでいる自分に気付くことがあった。読み終わって見るとあっけないものであった。次に『方丈記』を読んでみようと思う。これからも宜しくお付き合い下さい。

    方丈記 1
原文
 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年(こぞ)焼けてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

現代語訳
 流れていく川の流れは絶えることなく、しかも本の水ではない。川の淀みに浮かぶ泡はすぐ消えるかと思うと新しい泡が生れ、決して留まっていることはない。世の中に生きる人と住まいもまた同じようなものだ。玉(ぎょく)を敷き詰めた都の中に家を構え、競って甍を葺いた身分の高い方の住まいも身分の低い人の家も長い年月の間、無くなる事はないが、この事実を調べてみると昔から続いている家は稀なことだ。或いは去年火事に合い、今年になって新築され、或いは大家であった方の家は亡びて小さくなる。そこに住む人も同じことだ。場所は変わることなく、人も多く行き交っているが、昔見知った人は二、三十人のうち僅かに一人、二人に過ぎない。朝亡くなったかと思うと夕方に生まれる人がいるようにまるで水に出来る泡に似ている。知らないうちに人が生れ、死ぬ人はどこからきてどこかへと去っていく。またわからない。この世に仮に宿り、誰のために心を悩まし、何かによっては目を細めることがある。この世の主と住まいとが無常を争い去っていくさまは、云わば朝顔の露と異なることはない。或いは露は落ち、花は残る。残ったとしても朝日に照らされ枯れていく。或いは花は萎み、露はなお消えぬことがある。消えぬことがあったとしても夕べを待つことはない。


 末法の世を愁う    白井一道
 世の中の無常を鴨長明は実感していた。いつまでも存続していくものだと思っていた天皇支配の体制がこんなにも脆く亡びていくのを実感していた。今あるものは必ず亡びていくものである。永遠なものなどは何もない。天皇の権威が失われていく。どんなに天皇の権威を惜しんでみても武家の力の前にはなす術がない。
 月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
大江千里の詠んだ歌が鴨長明の心に鳴り響いていた。天皇の権威が薄れていくのはやむを得ないものなのだ。受け入れざるを得ないのだ。私一人が嘆いてみてもどうにもならないものなのだ。
ながむれば千々(ちぢ)に物思ふ月に又我が身ひとつの嶺の松風
長明もまた大江千里の歌に刺激され歌を詠んで心を慰めた。天皇の権威は私一人のものではない。その権威が無くなっていく。この無常観に打ちひしがれている。世も末だ。この末法の世の中にひたすら耐えていかなければならない。仏にすがり、極楽への往生を願うばかりだ。念仏を唱えることだ。一刻の猶予もならない。念仏を唱え続けることが心の平安を叶えてくれる。歌を詠むことだ。文章を書くことだ。
松島や潮くむ海人の秋の袖月は物思ふならひのみかは
中秋の明月の夜、松島の、海水を汲んで塩を作る人の袖は、びっしょり濡れ、月の光が照っている。秋の袖に月が宿る。物思う人の慣(なら)いのように私の袖も秋の哀れさに涙で濡れ、悩んでない人の袖にも、哀れが満ちている。
天皇の権威と権力が失われていく世の中の動きに泪を流し、憂いている。哀しみがひたひたと打ち寄せてくる。これはどうにもならない。