醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1408号   白井一道

2020-05-12 10:32:47 | 随筆・小説


 徒然草第231段 園の別当入道は


原文
 園の別当入道(べつだうにふどう)は、さうなき庖丁者(はうちやうじや)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠(か)き侍るべきにあらず。枉(ま)げて申し請けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給(た)べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条(なでう)、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

現代語訳
 園の別当基氏卿はたぐい稀な料理人である。ある人のお宅で立派な鯉を出されたので、皆が別当基氏卿の包丁さばきを見せてもらえるなと思ったが、軽々しく口にするのもいかがなものかと躊躇(ためら)っていると別当基氏卿は機転の利く人で「このところ、百日の間、毎日鯉を切って料理の稽古をしていますので今日のところしないというわけにもいきますまい、是非ともその鯉を調理させていただきましよう」と、言って切られた。とてもその場にかなった言葉で、人々は皆ぞくぞく期待していると、或る人が北山太政入道殿にこの話をしたことによると「このようなこと、私には気障っぽく思えるがね。『きちんと切って料理できる人がいないなら、させていただきますと、言って料理する』と言うなら,なお良かった。どうして百日の鯉を切ろうなど」というのか、面白く思ったと人に話したことも面白い。大方、わざとらしい盛り上がりより、そのような盛り上がりがなく静かな方が良い。客人のおもてなしなども、ちょうどよい折だというように計らってだしたのも誠に良いが、ただ、何という事もなく、ご馳走の品々を出した方がいい。他人に物をあげるのも、何の理由もなく「これを差し上げましょう」と言ってあげた方が誠の好意というものだ。その物を惜しみ手放し難く、相手から欲しがられたいように思ったり、勝負事に負けた理由としての贈り物やご馳走は嫌味なものだ。

 鯉の歴史について   白井一道
 鯉の原産地は、黒海・カスピ海沿岸の中央アジアと中国。ヨーロッパへの鯉の移植経路は、紀元前三世紀で、このころ、キプロス島を経てギリシャへ渡った。鯉の属名である「キプリヌス」は、この島名からきている。
 鯉は、十四世紀以降、十字軍の遠征によって、中部ヨーロッパへはいった。はじめの頃は、ハンガリーやオーストラリアにはいったが、次第に近隣の国々に広がっていった。ロシアにはいったのが十八世紀、アメリカへは十九世紀、その後、ほとんど全世界に分布した。
 いまや、地球上で鯉のいない所は、両極地帯の地域ぐらいで。鯉の養殖はずいぶん古くから行はれた。中国では、紀元前五世紀の頃に、既に養殖法の記述がある。陶朱公范蠡の『養魚経』である。
 中国から渡来した日本の鯉については、紀元一世紀のころ、景行天皇が鯉を池に放して飼った記録が残されている。古来、東洋では鯉は”出世魚”とされ我が国では端午の節句の鯉幟となって、男子の出世を象徴した。
 はじめは、食用にしていた鯉であったが、我々の祖先はいつか観賞用の色鯉を作りあげた。まず中国で緋鯉、黄鯉ができ、我が国ではさらにこのほかに、鯉の自然淘汰と遺伝を利用して紅白・三色・五色・白・青・縞など、色彩に富む色鯉を次々に生み出した。我が国の錦鯉の産地は、古くから、越後の国とされている。
 鯉の効果
鯉の肉はタウリンという、強肝剤として使われる含硫アミノ酸がある。これは飲酒時には解酒毒剤となり、酒で二日酔や脂肪肝になるのを予防するという。