醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1412号   白井一道   

2020-05-16 10:37:34 | 随筆・小説



  徒然草第235段 主ある家には



原文
 主(ぬし)ある家には、すゞろなる人、心のまゝに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気(ひとけ)に塞(せ)かれねば、所得顔(ところえがお)に入り棲み、木霊(こたま)など云ふ、けしからぬ形も現はるゝものなり。
 また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
 虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきまゝに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干(そこばく)の事は入り来らざらまし。

現代語訳
 主の住む家には、無関係な人が思いのまま通りすがりに入って来ることはない。主の居ない所には通りすがりの人がみだりに立ち入り、狐や梟のようなものも、人の気配に防がれることがなく、思う存分入り込み住み始め、木霊(こたま)などという奇怪なものが現れてくるものである。
 また鏡には色と像がないので、あらゆる物の映像が映る。鏡に色や像があったとしても映ることはないであろう。
 何もない空間にはあらゆる物をいれることができる。我らの心に種々の思いが気ままに現れては浮かんでくるのも、心というものに実体がないからであろう。心に主がいるのならば、胸の中に多くの事は入り込むことはないであろう。

鏡の神秘性   白井一道
神を祀るために、弥生時代以来さまざまな品々が捧げられてきた。「鏡」はそのひとつである。古代の祭祀を考える上で手がかりとなる『日本書紀』の「天石窟(あめのいわや)(『古事記』では「天石屋戸〈あめのいわやと〉)」の神話を読むと、鏡の記述が目に留まる。鏡をサカキ(常緑樹)に下げて捧げ、天照大神のお出ましを願うシーンがあるのだ。「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれるその鏡は、のちに天上から地上世界へともたらされたという。優れた鏡は神に捧げられ、その象徴ともなったのである。一方で、鏡は神祭りのみならず、人の葬祭にも用いられた。
「古代の人々にとって、鏡は単に姿を写す実用品としてだけでなく、墓への副葬品や祭祀の道具としても使われました。多くの遺跡からも、そのような使い方をしていた形跡が見て取れます」
こう話すのは、國學院大學 研究開発推進機構の内川隆志教授(國學院大學博物館 副館長)。実際、古墳時代に作られた古墳の中には、鏡が副葬品として使われていた事実を伝える遺跡が多数ある。
「たとえば、4世紀前半に作られたとされる奈良県の黒塚古墳(天理市)。ここからは、三角縁神獣鏡が33面、そして画文帯神獣鏡が1面、出土しました。三角縁神獣鏡は、鏡面をすべて埋葬者に向けて並べられ、埋葬者の頭部付近には画文帯神獣鏡が置かれていました」
また、3世紀後半〜4世紀前半の古墳と推定される奈良県のホケノ山古墳(桜井市)からも、画文帯神獣鏡が出土している。一方で、古代祭祀の形跡が数多く残り、世界遺産にもなっている福岡県の沖ノ島では、当時の祭祀遺跡から数多くの鏡が見つかった。死者への副葬品、そして神への捧げ物として、鏡は大きな役割を果たしていたことが分かる。
「三種の神器」でもある鏡、人々が感じた特殊な力とは
弥生時代前期に日本へ伝わった鏡は、後期になると、北九州を中心に日本国内でも作られるようになる。副葬品として、また4世紀頃からは祭祀でも用いられていたことが出土事例から確認できる。
時代が進む中で「当時の祭祀遺跡からは、本物の鏡だけでなく、鏡を模した石製や土製の模造品も出現しました」と内川氏。また、古墳から出土した埴輪の中には巫女の姿を表した「巫女埴輪」があるが、腰には呪具として鏡を付けているものも見られ、祭祀と鏡との密接な関わりを想起させる。
 今年5月に行われた天皇陛下の剣璽等承継の儀では、皇位と関係する「三種の神器」が話題となった。剣・璽とともに鏡があり、長い日本の歴史の中で、鏡が果たしてきた役割の大きさの一端が伺えるのではないだろうか。最後に、古代に建物を建てるのに先立ち、土地の神を鎮め邪鬼を払いのける目的で、鏡が土中に埋納された。
吉永博彰