醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1399号   白井一道

2020-05-04 10:45:14 | 随筆・小説



   
 徒然草第223段 鶴の大臣殿は



原文
 鶴(たづ)の大臣殿(おほいとの)は、童名(わらはな)、たづ君(きみ)なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ひがこと)なり。

現代語訳
 九条基家(くじやうもといえ)、鶴(たづ)の大臣殿(おほいとの)の童名(わらはな)はたづ君である。鶴を飼われていたのでというのは、間違いである。

 名前について      白井一道

平安時代から江戸時代までの身分制社会にあっては、武士や貴族の子が幼児である間の名前があった。元服して諱(いみな)をつけるまでの名前である。江戸期、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前は終生変わることは無い。
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。本来、名前の表記について生前は「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、のちには生前にさかのぼって諱と表現するなど、混同が見られるようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
日本の場合、人間に限らず、成長の段階に応じて名称を変える文化がある。例えば出世魚と知られるブリの場合、モジャコ(ワカナゴ)・ワカシ ・イナダ ・ワラサ ・ブリ。昆虫で言えば、姿形が異なるヤゴとトンボ、陸獣では、ウリ坊とイノシシがある。また、幼名・元服名に限らず、地位に応じて名を改める文化が日本にはあったようだ。そのためか氏姓が多いのかもしれない。
また武家では幼名を代々継承する家が多く存在した。たとえば徳川将軍家の竹千代、尾張徳川家の五郎太、紀州徳川家の長福丸、水戸徳川家の鶴千代、加賀前田氏の犬千代などがあり、事例に枚挙の暇が無い。これらはそれぞれの家の初代当主の幼名であり、(たとえば竹千代は江戸幕府初代将軍徳川家康の、五郎太は尾張藩祖徳川義直の、長福丸は紀州藩祖徳川頼宣の、鶴千代は水戸藩祖徳川頼房の、犬千代は加賀藩祖前田利家の幼名である)これらは子孫のうち後を継ぐべき嫡男の幼名にもなり、代々受け継がれていった。
名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされる。姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに古代ギリシアなどにその形跡があるとされ、東方では周代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。
ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、1989年に国連総会で採択された児童の権利に関する条約7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである 」と定めている。
日本の場合は民法により氏+名という体系をもつ。呼称される場合は、氏のみ・名のみやあだ名、敬称・職名などとの組み合わせ、同一の人名の世襲などがある。氏名は他に、姓名や名字(苗字)と名前ともいう。縦書きにしたとき、氏は上部、名は下部になるため、氏を上の名前、名を下の名前と呼ぶこともある。
氏+名という構成は日本の文化に基づいた体系である。人名は、共同体の慣習により異なる名付けの体系を持ち、また、呼称する場合も慣習によって独特の方法を持つことが多い。漢字文化圏において姓と氏、さらには日本における苗字は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は氏(ウヂ:本姓)と苗字に代表される家名は区別されていた。名は名前とも呼ばれる。
人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いに相手を認識し、意思の疎通をとる際に使われる。多くの場合、戸籍など公的機関に登録される名前を本名として持つ。呼び名としては、戸籍名のままや、「さん」、「君」、「ちゃん」等の敬称が付け加えられたり、名前を元にした呼び方、あだ名との組み合わせなどとなることが多い。 また、人名そのものが、自己、自我、アイデンティティに大きく関係している。