醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1414号   白井一道

2020-05-18 10:37:33 | 随筆・小説



  徒然草第237段 柳筥に据うる物は



原文
 柳筥(やないばこ)に据(す)うる物は、縦様(たてさま)・横様(よこさま)、物によるべきにや。「巻物などは、縦様に置きて、木の間(あはひ)より紙ひねりを通して、結い附く。硯(すずり)も、縦様に置きたる、筆転ばず、よし」と、三条右大臣殿仰せられき。
 勘解由小路(かでのこうじ)の家の能書の人々は、仮にも縦様に置かるゝ事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。

現代語訳
柳筥(やないばこ)に乗せて置く物を縦向きに置くのか、横向きに置くのかは物によるのだろうか。「巻物などは縦向きに置き、木の間(あはひ)から紙縒(こよ)りを引っ張り出し結びつける。硯も縦向きに置き、筆を転ばさないようにするのが良い」と三条右大臣殿がおっしゃっておられた。
勘解由小路(かでのこうじ)家の能書家の人々は、仮にも縦向きに置くことはない。必ず横向きに置かれていた。

三筆と三蹟について   白井一道
三筆は9世紀頃に活躍した空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を指し,三蹟は10世紀頃に活躍した小野道風(おののみちかぜ,通称は「とうふう」)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ,通称は「さり」)・藤原行成(ふじわらのゆきなり,通称は「こうぜい」)の3人を指す。彼らは傑出した書家として古くから尊崇され,江戸時代には三筆・三蹟という呼び名が定着した。
弘仁9(818)年,嵯峨天皇は大内裏(平安宮)の門号を唐風に改めるとともに,自ら大内裏東面の陽明門(ようめいもん)・待賢門(たいけんもん)・郁芳門(いくほうもん)の額を書き,南面の美福門(びふくもん)・朱雀門(すざくもん)・皇嘉門(こうかもん)の額を空海に,また北面の安嘉門(あんかもん)・偉鑒門(いかんもん)・達智門(たっちもん)の額は橘逸勢に書かせました。この3人が三筆である。
平安時代中期,9世紀頃までの日本の書法は,東晋の人で書聖と称された王羲之(おうぎし,4世紀)を初め、中国の書家にならったものでした。当時の日本が中国の制度や文化の摂取につとめていたからである。三筆の書風も中国に規範を求め,その強い影響を受けている。しかしその一方,彼らは唐風にならいながらも,それぞれ独自の書法を開拓し,やがて後に確立する和様(わよう)への橋渡しという役割を果たす。
空海 五筆和尚(ごひつおしょう)
 空海(8世紀末~9世紀)は後に弘法大師(こうぼうだいし)と号され,真言宗の開祖として知られている。佐伯田公(さえきのたぎみ)の子として讃岐国(さぬきのくに,香川県)多度郡屏風浦(びょうぶがうら)に生まれ,上京して仏門に入りました。延暦23(804)年には遣唐使にしたがい入唐し,大同元(806)年に帰国して真言宗を開創しました。
空海は優れた宗教家であっただけでなく漢詩文にも秀で,唐では仏教のほか書法や筆の製法なども学びました。その達筆ぶりは,後世にさまざまな伝説を生み出しています。たとえば空海は,左右の手足と口に5本の筆を持って一度に5行を書し,「五筆和尚」と呼ばれたと伝えられますが(『入木抄』<じゅぼくしょう>),これも能書家として尊崇されたことの反映といえます。現代でも「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」など,空海と書道にまつわることわざが残されています。
空海の筆跡として最も有名なものが,天台宗の開祖最澄(さいちょう,767~822)に宛てた手紙「風信帖」(ふうしんじょう,国宝)です。またこのほかにも,空海が高雄山寺(神護寺)で真言密教の秘法,灌頂(かんじょう)を授けた人々を記した「灌頂歴名」(かんじょうれきみょう,国宝)などが知られています。
こうした筆跡から窺える空海の書風は,伝統的な王羲之の書に,唐代の書家顔真卿(がんしんけい,709~85)の書法を加味し,彼自身の個性を加えたものとされています。また空海は様々な書体に優れ,たとえば唐で流行した飛白(ひはく)の書という技法もいち早く取り入れました。「五筆和尚」とは,このように多くの書体を使い分けたことに由来するともいわれます。
嵯峨天皇 能筆の天皇
 嵯峨天皇(786~842)は,桓武天皇の第二皇子で平城天皇の弟にあたり,大同4(809)年に天皇となりました。詩文や書にすぐれ,在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えたことで知られています。
嵯峨天皇は唐代の書家欧陽詢(おうようじゅん,557~641)を愛好し,また空海に親近したことから,その書風にも影響を受けたようです。『日本紀略』には「真(まこと)に聖なり。鍾(しょうよう,魏の書家)・逸少(いつしょう,王羲之),猶いまだ足らず」とあり,筆づかいは羲之らにも勝るとまでほめたたえられました。
嵯峨天皇の確実な筆跡では,光定(こうじょう)という僧が延暦寺で受戒したことを証明した文書「光定戒牒」(こうじょうかいちょう,国宝)が知られています。その書風には欧陽詢や空海の影響が認められるとされています。
橘逸勢 配流された能筆家
橘逸勢(?~842)は入居(いりすえ)の子で,延暦23(804)年,空海らとともに入唐して一緒に帰国しました。しかし承和9(842)年に起きた承和の変に連座し,配流地の伊豆へ向かう途中に病没するという非業の死を遂げました。
『橘逸勢伝』(たちばなのはやなりでん)によれば,逸勢は留学中,唐の文人たちに「橘秀才」(きつしゅうさい)と賞賛されたほどの学才があり,また隷書体(れいしょたい)に優れていたといわれています。残念ながら逸勢の確かな筆跡は残っていませんが,その筆と伝えられるものに,桓武天皇の皇女が興福寺東院西堂に奉納した「伊都内親王願文」(いとないしんのうがんもん)があります。
三蹟と和様の創成
以上のような中国を模範とした時代は,10世紀頃になると次第に変化を見せるようになりました。たとえば絵画での唐絵(からえ)から大和絵(やまとえ)への移り変わりや,文学に見られる物語文学の起こりなどがそれで,いわゆる国風文化(こくふうぶんか)の成立がそれにあたります。
書道でも,この頃には和様(わよう)と呼ばれる日本風の書法が創成され,新たな規範として広く流行することになりました。この和様を創始し定着させたのが,小野道風・藤原佐理・藤原行成の三蹟です。彼らの書は新しい日本独自の規範として長らく尊重され,鎌倉時代の書道指南書『入木抄』(じゅぼくそゆ)にも,野跡(やせき)・佐跡(させき)・権跡(ごんせき)(小野道風・藤原佐理・権大納言藤原行成の筆跡),この三賢を,末代の今に至るまで,この道の規模(模範)として好む事,面々彼の遺風を摸すなり。
小野道風 「羲之の再生」
小野道風(894~966)は,篁(たかむら)の孫にあたる官人で,当代随一の能書として絶大な評価を受けました。延長4(926)年,醍醐天皇は僧寛建の入唐にあたり,唐で広く流布させるため,道風の書いた行書・草書各一巻を与えました。当時,道風は唐にも誇示すべき書家として認められていたわけです。また『天徳三年八月十六日闘詩行事略記』も「木工頭(もくのかみ)小野道風は,能書の絶妙なり。羲之(王羲之)の再生,仲将(ちゅうしょう,魏の書家)の独歩(どっぽ)なり」と評しています。
道風は羲之の書風を基礎としながら字形を端正に整え,筆線を太く豊潤なものとして,日本風の穏やかで優麗な書風,つまり和様をつくり出した人物とされています。
その道風の真跡としては,円珍(814~91)へ智証大師の号が贈られたときの「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」(えんちんぞうほういんだいかしょういならびにちしょうだいししごうちょくしょ,国宝)や,内裏の屏風に文人大江朝綱の詩句を書したときの下書きとなった「屏風土代」(びょうぶどだい)などが知られています。
藤原佐理 異端の能筆家
藤原佐理(944~98)は摂政(せっしょう)太政大臣(だじょうだいじん)実頼(さねより)の孫で,「日本第一の御手」(『大鏡』)といわれ,達筆で名を馳せました。円融・花山・一条天皇ら三代の大嘗会(だいじょうえ)で屏風の色紙形(しきしかた)を書く筆者に選ばれ,永観2(984)年には内裏の額を書いて従三位(じゅさんみ)に昇進するなど,その筆跡がもてはやされました。
しかし筆跡への高い評価とはうらはらに,宮仕えの貴族としての佐理は,非常識でだらしない人物と見られていたようです。関白(かんぱく)藤原道隆(ふじわらのみちたか,953~95)の依頼で障子の色紙形を書いたときには,日が高くなり人々が参集した後でようやく現れたため,見事な能筆ぶりを見せたにもかかわらず,場が興醒めとなり,恥をかきました。『大鏡』はこのことから佐理を「如泥人(じょでいにん,だらしのない人物)」と評しています。
佐理の真跡では,大宰府へ赴く途中に書いた手紙「離洛帖」(りらくじょう,国宝)や漢詩文の懐紙「詩懐紙」(しかいし,国宝)などが有名です。その筆運びは緩急の変化に富み,奔放に一筆で書き流したもので,道風や行成の丁寧な筆致とは違って独特の癖があるといわれます。こうして見ると,佐理の非常識な行動も,むしろ個性的で型破りな異才ぶりを際だたせているように思えます。
藤原行成 「入木相承の大祖」
藤原行成(972~1027)は摂政太政大臣伊尹(これまさ)の孫で,実務に堪能な公卿として藤原道長(966~1027)の信頼も高く,権大納言まで昇進しました。この頃の名臣を称したいわゆる「寛弘の四納言」の一人にあたる人物です。
行成は本人だけでなく子孫も代々書道を相承して,この家流は「能書の家」となっていきました。このことはそれまでと大きく異なる点といえます。そうして生まれたのが後世に多くの書流の源となった世尊寺流(せそんじりゅう)であり,行成はその始祖として「本朝(ほんちょう,日本)入木(じゅぼく,書道)相承の大祖」(『尊卑分脈』<そんぴぶんみゃく>)と尊重されるようになったのです。
行成は道風の書を尊重し,自分の日記『権記』(ごんき)にも,夢で道風に会って書法を伝授されたと記しました。道風への尊崇や,彼の創始した和様を継承しようとする意識が読み取れます。行成は穏やかで優美な筆致を持ち,まさに完成された和様の姿を窺うことができます。性格も冷静で温厚だったらしく,そうした人柄も書風に反映したのかもしれません。
行成の代表的な筆跡としては,菅原道真(すがわらのみちざね)らの文章を書写したもので本能寺に伝来したために「本能寺切」(ほんのうじぎれ,国宝)と呼ばれる書や,唐代の詩人白居易(はくきょい,772~846)の詩集『白氏文集』(はくしもんじゅう)を書写した「白氏詩巻」(はくししかん,国宝)などがあります。
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