醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1428号   白井一道  

2020-06-03 10:56:06 | 随筆・小説



  法の支配ということ



 「時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである」。
 このように「ロッキード事件などを担当した元検事総長の松尾邦弘氏ら検察OBと、元法務省官房長の堀田力氏ら、法曹界の重鎮14人が連名で、検察庁法改正案に反対する、森まさこ法務大臣あての意見書を法務省に提出」した批判文書にある。私は安倍総理の検察庁法口頭決済による解釈変更を法の支配に逸脱することだと理解した。黒川高等検事長の定年延長は違法行為、法の支配を終わらせることだ。安倍政権が違法行為をする。これが暴政ということなのであろう。安倍政治は暴政なのだ。このような暴政を国民が許すはずがない。だから自民党議員たちが次の選挙で落選する可能性が出てくることを心配して、自民党議員たちが安倍政権を終わらせた方がいいと思い始めることを安倍政権が危険水域に入ったとマスコミが言う。
 内閣支持率と自民党支持率の合計が50%を切ると内閣が危険水域に入ったといわれているようだ。安倍内閣は限りなく危険水域に入ってきているようだ。民主主義の国にあっては常に法の支配を逸脱し、暴政を始めようとする力が働くようだ。その動きを押し止めようとする力が選挙のようだ。安倍内閣にあっては小選挙区制が暴政を押し止める力が弱体化しているために能天気に森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題など次々に問題を起こしても平気でいられるようだ。しかし新型コロンウイルス問題では安倍内閣支持率の回復が難しいのかもしれない。この感染症は直接国民の命を奪おうしているからである。誠実に国民の命を大事にする政策を実行することが求められているからである。単なる口先だけで国民を騙すことができないからである。真摯に誠実に国民の命を守る政策をしなければ、国民は安倍内閣に見切りを付けるに違いない。民主主義とは多数者支配の政治制度である。短絡的な多数決主義が民主主義だと考えている人々が圧倒的に多いと私は考えている。問題は本当に多数者なのかということなのだ。自民党の衆議院選挙における全有権者の内の何パーセントが自民党議員に投票しているのかというと17%ぐらいのようだ。全有権者の17%が自民党議員に投票している。83%の有権者は自民党議員に投票していない。選挙を棄権することで自民党を支持している人々が圧倒的な多数者なのだ。そのような消極的な支持によって自民党政権は維持されている。だからそれほど自民党政権は盤石なものではない。
法の支配を支えている民主主義制度というものはイギリスの革命、ピューリタン革命・名誉革命、アメリカの独立革命、フランス革命の市民革命によって憲法が制定されて法の支配が確立した。この革命を成し遂げた勢力は市民、新興ブルジュアジーと言われた資本家たちである。資本主義経済制度の確立を求めた人々である。この資本家たちは国王による独裁的な政治を嫌い倒したが自分たち資本家たちが独裁的な政治をすることを望んでいた。また独裁的な経営戦略を取らなければ統一的な体制を築くことができない。資本主義経済を体現する会社は社長以下のある意味独裁的な統一された指導体制がとられている。緊密に結びつけられた団体組織としての会社の中には独裁的な指導体制が築かれている。会社を組織する原理と国家を組織する原理は異なったものであるが資本主義経済体制をとる民主主義国家にあっては、絶えず民主主義を逸脱する暴政が起こりがちである。民主主義が少数意見を無視するようになると必ず暴政が始まっていく。資本家と言われる少数者が国民の支持を得て、多数者の意見としての政策を実現しようとするのならば、良いのであるが実際はそうではないようだ。擬制的多数者が支配する政治体制が民主主義政治の実態である。安倍政権の支持者は擬制的多数者に過ぎない。民主主義政治体制とは擬制的多数者支配の政治制度なのであろう。決して多数者の支持によって営まれる政治ではない。
 You tubeの番組で共産党の小池晃議員が我々は真の多数者の意見を代弁していると信じて政治をしていると話していた。