方丈記6
原文
又養和のころとか、久しくなりておぼえず、二年(ふたとせ)が間(あひだ)、世中飢渇(よのなかけかつ)して、浅ましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬收むるそめきはなし。
是によりて國々の民、或は地を捨てゝ堺をいで、或は家を忘れて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、更にそのしるしなし。京のならひ、なにわざにつけても、みな、もとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやはみさをも作りあへん。念じわびつゝ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見たつる人なし。たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食路のほとりに多く、憂へ悲しむ聲、耳に満てり。
現代語訳
また養和の頃であったか、昔のことなのではっきりしない。二カ年間、世の中飢えて浅ましいことがあった。それは春と夏の旱(ひでり)、それは秋の大風、洪水など、災害が打ち続き、五穀が悉く実らなかった。無意味に春耕し、夏に植える作業をして、秋には収穫して冬蓄えることがなかった。
この事によって各地の民、或る民は土地を捨て故郷を出る。或る民は自宅を出て山に住む。さまざまな祈りが始まり、特別な祈祷も行われるが、特にその効果もない。京の都の生活は何をするにしても、すべて田舎に頼っているので田舎から何も上がって来るものが無くなるとそうそう平気な顔をしていられようか。残念なことだと思いつつも様々な家財を片っ端から捨てるように売りさばこうとしても買ってくれる人はいない。たまたま買ってくれそうな人は安く値切り、食べ物を高く売りつける。乞食がたむろする中りに多く、憂い悲しむ声が耳に満ちる。
天明の大飢饉 『後見草』杉田玄白より
「扨此の後に至り御府内は五穀の価少し賎く成しか共、他国はさして替りなく、次第に食尽て、果は草木の根葉までもかてに成るべき程の物くらはずといふ事なし。或ひは松の皮をはぎ餅に作りて喰ふの由、公にも聞召し、飢を凌ぐの為なれば藁餅といふ物を作り喰へと触られたり。其の製法は、能わらのあくをぬき粉にはたきて、一升あらば米粉三合まぜ合わせ、蒸し搗て餅となし是を喰ふ事なりき。其の中にも、出羽、陸奥の両国は、常は豊饒の国なりしが、此年はそれに引きかへて取わけの不熟にて、南部、津軽に至りては、余所よりは甚しく、銭三百文に米一升、雑穀も夫に准じ、後々は銀拾弐匁に狗壱疋、銀五拾匁に馬一疋と価を定め侍りし由。
然ありしにより元より貧き者共は生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば…日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。
又或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に餓たる人の死骸あり、是を切割、股の肉、籃に盛行人有し故、何になすとぞと問侍れば、是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由。かく浅間しき年なれば、国々の大小名皆々心を痛ましめ饑を救はせ玉へ共、天災の致す所人力にては及がたく、凡そ去年今年の間に五畿七道にて餓死せし人、何万人と云数知れず、おそろしかりし年なりし。(中略)
夏も過ぎ漸く秋に至りぬれば新穀も出来り世の中少し隠なり。されども昔より人の申伝へし如く、飢饉の後はいつとても疫癘必ず行はるとかや。今年も又其の如く此の病災にかかりては死亡する者多かりき。遥か程過侍れて後、陸奥国松前かたに罷りし人帰り来て語りしは、南部の五戸、六戸より東の方の村里は飢饉疫癘両災にて人種も尽けるにや、田畠は皆荒はてて渺々たる原野の如く、郷里は猶有ながら行通ふ人もなく、民屋は立並べど更に人語の響もなく、窓や戸ぼそを窺へば天災にかかりし人葬り弔ふ者もなく、筋肉爛れ臥もあり、或ひは白骨と成はてて煩ひ寐し其の侭に、夜の物着て転もあり。又路々の草間には餓死せし人の骸骨ども累々と重なり相合ひ、幾らともなく有けるを見過ごし侍ると申たり。かかる無慙の有様如何に乱離の後にても及ぶまじとぞ聞へしなり。此の躰に侍れば何時何の年耕作むかしに立帰り、五穀の実のり出来ぬべし、苦々敷世のさまなりとぞ申けり。又或人の語りしは、白河より東の方、此の一両年の凶作にて、婦人の月経めぐり来らず、鶏玉子を産ざる由、是も一つの異事なるべし」