方丈記 14
原文
又、ふもとに一の柴のいほりあり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。ときどき来たりてあひとぶらふ。若、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十、そのよはひ、ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。或は茅花(つばな)を抜き、岩梨(いはなし)をとり、零余子(ぬかご)をもり、芹(せり)をつむ。或はすそわの田居(たゐ)にいたりて、落穂を拾ひて穂組(ほぐみ)をつくる 。若、うらゝかなれば、峰によぢのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山(こはたやま)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地(しようち)は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。歩みわづらひなく、心遠くいたるときは、これより峰つゞき、炭山をこえ、笠取を過ぎて、或は石間(いわま)にまうで、或は石山ををがむ。若はまた、粟津(あはつ)の原を分けつゝ、蝉歌(せみうた)の翁があとをとぶらひ、田上河(たなかみがわ)をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。かへるさには、をりにつけつゝ、桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実をひろひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づととす 。若、夜しづかなれば、窓の月に故人をしのび、猿のこゑに袖をうるほす。くさむらの蛍は、遠く槙のかゞり火にまがひ、暁の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた、埋み火をかきおこして、老のねざめの友とす。おそろしき山ならねば、ふくろふの声をあはれむにつけても、山中の景気、をりにつけて、尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。
現代語訳
また麓に一つ、柴の庵がある。すなわちこの山守がいる所である。そこに子供がいる。時々来ては話などした。もし退屈しているときはその子供を友として散歩する。子供は10歳、私は60、この年差はことの外ではあるが、心が慰むことは同じである。或いは茅花を抜き、岩梨をもぎとり、零余子(ぬかご)を拾ったり、芹を摘む。或いは山裾にある田の際に行き、落穂を拾い、穂組(ほぐみ)をつくる 。もし、天気が良ければ、峰によじ登り、遥かに見える故郷の空を眺め、木幡山(こはたやま)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を眺める。景勝地には主がいないので心を慰むるに支障はない。草臥れることがないなら遠くの方まで行ってみたいときは、峰を歩き続け、炭山をこえ、笠取を通り過ぎ、或いは醍醐寺に詣で、石山を拝む。もしまた粟津(あはつ)の原を通り越し蝉丸の翁の跡を尋ね、宇治川の上流の田上河(たなかみがわ)を渡り、猿丸大夫の墓を訪ねる。帰る際は季節の折々に桜の花を愛で、紅葉の色づきを楽しみ、蕨を抜き、木の実を拾い、かつ仏に供え、更に家への土産にする。もし、夜が静かであるなら、窓から射す月の光に故人を偲び、猿の鳴き声に泪をぬぐう。草むらの蛍は遠く氷魚を捕るかがり火のようで、明け方の雨はまるで木の葉を吹く嵐のようだ。山鳥が鳴く声を聞いても父か母かと思い、峰の鹿が馴れて近くにいるのにも世から遠ざかっているのを感じる。或いはまた、埋み火をかき起こして老人の寝覚めの友として温まる。恐ろしい山ではないがフクロウの鳴き声に哀れを感じるのも山の中の風流だと思い、感じることに尽きることがない。もちろん深く分かってくれて、更に深くいろいろ知りたい人にはこれ以上のものがあることであろう。
中国の竹林の七賢人 白井一道
中国の竹林の七賢人と言われる人々は清談をしたという。世俗を離れ老荘的談話を楽しんだ人々を竹林の七賢人と言われている。この七賢人たちが話し合ったことを清談といった。時代は後漢帝国が崩壊し、三国時代が始まっていた。三国の中では魏の国がもっとも強大であった。なぜなら魏は黄河の中流域、中原(ちゅうげん)を支配したのが魏であった。魏が滅亡していく頃に出現したのが竹林の七賢人である。後漢から魏、魏から晋へと興亡相次いだ乱世にあって、儒教に忠実であること、世俗に関与することが政治的な身の危険に繋がったという時代背景に出現したの七賢人である。遁世者である事に変わりはないが七賢人はお酒を楽しみに生きたようである。七賢人は儒教思想を論じたのではなく、老荘思想を論じ合った。古い礼教を論じた儒教思想ではなく、老荘を論じ合った。