醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1435号   白井一道

2020-06-10 12:33:07 | 随筆・小説


  方丈記 9



原文
 又、同じころかとよ。おびたゝしく大地震(おおなゐ)振ること侍き。そのさまよのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地(ろくぢ)をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわほ)われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟(だうじやたふめう)、一つとして全(また)からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰(ちりはい)たちのぼりて、盛りなる煙の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜(りよう)ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍しか。かくおびたゞしくふる事は、しばしにして止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日・廿日すぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけむ。
四大種のなかに、水・火・風はつねに害をなせど、大地にいたりては、ことなる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の御首(みくし)落ちなど、いみじき事どもはべりけれど、なほこの度には如かずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言い出づる人だになし。

現代語訳
 又、同じころのことだった。けた外れの大地震があった。それは通常のものではない。山は崩れて河を埋め、海は波高く陸地を襲う。土地は裂けて水が湧き、大きな岩が割れて谷に転がる。渚を漕ぐ船は波間に漂い、道行く馬は足の置き場に惑っている。都のまわりにあるいたるところの堂塔は一つとして満足なものはない。或いは崩れ、或いは倒れている。塵灰が立ち上り、それはまさにむくむく立ち上る煙のようだ。大地が動き、家が壊れる音、雷と異なることがない。家の中にいるとすぐにも押し潰されるようだ。走り出ようとすると大地が割れる。鳥のような羽もないので空を飛ぶこともできない。竜であったらきっと雲にでも乗ることであろう。恐ろしいものの中の恐ろしいものこそが地震だと思ったことだ。このように激しかったのは少しの間で終わったが、その余震はしばらく続いた。世の常、驚くほどの地震は二、三十回、来ない日はなかった。十日、二十日過ぎるとようやく間遠くなって、或いは四、五度、二、三度、もしくは一日おいて、二、三日に一度、などになり、おおかたその名残は三月ばかりになりやんだ。
 四大種の中で水・火・風は常に被害を及ぼすが大地においてはこのような被害を出すことはなかった。昔、文徳天皇のころだったとか、大地震が起こり、東大寺の大仏の首が落ちるなど、大事があったけれども、今回ほどではなかったという。大地震の直後は皆、どうにもならない被害について語ったが少し心の澱が取れると月日が経つにつれ言葉に出す人はいなくなった。

 忘れてならない東日本大震災  白井一道
 「忘れてはならない記憶を石に刻む」という津波記憶石がある。そこには次のような文章が刻まれている。
「千年後の命を守るために」
ここは津波が到達した地点です
もし大きな地震が起きたら、この石碑より上へ逃げてください
逃げない人がいても、ここまで無理やりにでも連れ出してください
家に戻ろうとしている人がいれば絶対に引き留めてください
女川中学校卒業生
宮城県牡鹿郡女川町にこの石碑は建てられました。宮城県牡鹿郡女川町、この町は太平洋沿岸に位置する町。東日本大震災の地震による津波で甚大な被害を受けました。
この悲しみを二度と繰り返さないために。
津波に奪われてしまった命を無駄にしないために。この東日本大震災で得た経験を次の世代に伝えるために、この石碑は建てられました。4,411棟あった家のうち、3,934棟が被害を受けました。