方丈記8
原文
仁和寺(にんわじ)に隆暁法印(りゆうげうほふいん)といふ人、かくしつゝ数も不知死る事を悲しみて、その首(かうべ)とに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる物多く、又、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。
崇徳院の御位の時、長承のころとか、かゝるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりめづらかなりし事也。
現代語訳
仁和寺の隆暁法印という僧侶はどれほど亡くなったのかが分からないほどであるのを悲しみ、その首が見える度毎に額に阿の字を書き、仏縁を結ばせることをした。死者の人数を知ろうと四、五月、両月の死者を数えたところ、京の一条から南、九条より北、京極から西、朱雀より東の、路の傍らの頭、すべてで死者は四万二千三百余りである。ましてその前後に亡くなる者多く、また河原・白河・西の京、もろもろの辺りの地域を加えれば際限がない。何たることか、七道諸国においても同じようなことだ。
崇徳院の時代、長承の頃だったとか、このような事があったと聞いているが、その時の状況は分からない。最近では珍しいことである。
世界史に見るパンデミック 白井一道
人類の歴史において恐れられた感染症というと、その一つが天然痘である。天然痘の歴史は古い。エジプトのミイラに天然痘の痕跡が、紀元前1100年代に没したエジプト古王朝のラムセス5世のミイラに天然痘の痘痕が認められている。
古代ギリシア、紀元前430年に流行した「アテナイの疫病」は記録に残された症状から天然痘であったと考えられている。
6世紀、イスラームの聖典『クルアーン』の「象の章」には、エチオピアに天然痘が蔓延したことが神の奇跡として描かれている。
コロンブスのアメリカ大陸上陸以降、白人の植民とともに天然痘もアメリカに侵入し、免疫のなかったアメリカの先住民族に激甚な被害をもたらした。白人だけでなく、奴隷としてアフリカ大陸から移入された黒人にも感染した。アメリカ大陸にあった二大帝国のアステカとインカ帝国滅亡の大きな原因の一つが天然痘であった。アステカに天然痘が持ち込まれたのは1520年頃、エルナン・コルテスの侵攻軍によってである。天然痘は瞬く間に大流行を起こし、モクテスマ2世に代わって即位した新王クィトラワクを病死させるなどしてアステカの滅亡の原因の一つとなった。さらにスペインの占領後も天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労働、麻疹やチフスなど他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対し、16世紀末の人口はおよそ100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊滅的な打撃を受けた。北アメリカ大陸では白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例がある。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争では、イギリス軍が天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようとしたとされ、19世紀に入ってもなおこの民族浄化の手法は続けられた。モンタナ州のブラックフット族などは、部族の公式ウェブサイトでこの歴史が伝えられている。ただし、肝心の英国側にはそのような作戦を行った証拠となる記録は残されていない。
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。
日本には中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られた。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者、身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴う天然痘の初めての記録がある。