方丈記 10
すべて、世中のありにくゝ、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさま、又、かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて不可計(かぞふべからず)。若(も)しおのれが身数ならずして、権門のかたはらにをるものは、深くよろこぶ事あれども、大きにたのしむにあたはず。なげき切なるときも、声をあげて泣くことなし。進退やすからず。たちゐにつけて、恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。若(も)し貧しくて富める家のとなりにをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつゝ出で入る。妻子・僮僕(とうぼく)のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、念々に動きて、時としてやすからず。若(も)しせばき地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるゝ事なし。若(も)し辺地にあれば、往反わづらひ多く、盗賊の難はなはだし。又、いきほいある物は貪欲ふかく、独身なる物は人にかろめらる。財あればおそれ多く、貧ければうらみ切也。人を頼めば、身他の有なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
現代語訳
すべて世の中は生き難く、我が身と棲家のなんとはかなく脆いこと、またこのざまだ。もちろん、所により、身のほどにしたがい、心を悩ますことを残らず数えてはならない。もし我が身が数にも入らない者にして、権力者の傍らにいる者は深く喜ぶこともあろうが、それほど楽しむに足るものではない。嘆き切なる思いをする時も、声をあげて泣くことはない。進退が厳しい。立ち居振る舞いにつき、恐れおののく様子は、例えば、雀が鷹の巣に近づくようなものだ。もし貧しく富める家の隣にいる者は朝夕みすぼらしい姿を恥じ、へつらいつつ出入りする。妻子や召使が羨む姿を見るにつけ、裕福な家の人に軽んぜられる様子を聞くにつけ、心がいろいろ動き、時として落ち着かないことがある。もし狭い土地におるなら近くで火事があったとき、その災いから逃れることはない。もし僻地におるなら行き帰りに災いが多く、盗賊に合う難儀が甚だしいだろう。また、勢いのある者は貪欲で、独身の者はひとから軽んぜられる。財産のある者は恐れが多く、貧しければ人を羨むこと切なる。他人を頼みにすると我が身が自分ではなくなってしまう。他人を大事にすると他人に束縛されてしまう。世間に従うと我が身が窮屈だ。世間に逆らうと変人のようになる。何れのところにかどうにかして我が身を宿し、片時の休みを得よう。
苦の世界ということ 白井一道
この世に生きることは苦である。このように仏教では言われている。確かに生きることは苦そのもののように感じる。四苦八苦という言葉がある。仏教の言葉のようだ。生・老・病・死、これを四苦と言っている。この世に生まれてくるから死がある。生れて来るから成長し、老いていく。老いていくから死がやってくる。この世に生まれてくるから苦しみがある。この世に生まれてくることを否定し、死後の世界に理想的な世界を夢見るのが仏教のようだ。死後の世界にしか理想的な世界を思い浮かべることができない現実がある。この現実を否定的に受け入れ、死後の世界に思いを託す。現実への絶望が死後の世界への希望になる。
現実への絶望が未来への希望を語る。ここに仏教の魅力がある。仏教に限らずすべての宗教は現実への絶望と未来への希望を語る。人間はどのような絶望的な状況にあっても希望がなければ生きられない。この現実の絶望的状況は今から二千年前も、八百年前の鴨長明が生きた時代も現代も基本的に変わることはない。いつの時代も人間の生きている現実は絶望的な状況である。
コルベ神父がアッシュビッツ強制収容所の中で身代わりになって飢え死できたのはキリスト教を信じ、未来に生きる希望を持ち得たからではないかと私は考えている。決して人間は絶望そのものを受け入れることはできない。絶望の後には必ず希望があると信ずることなしには死ぬことができない。